2009〜2010 第48代会長 田島 博昭
会長スローガン 『地域と共に愛ある奉仕』
地域と密着した活動等の継続は、違和感なく自然の姿で奉仕活動が推進できるものと思います。活動への共感が奉仕する人も喜びを感じ、社会の元気につながり、さらに大きな輪となって循環していく事を期待します。
クラブ運営方針 『元気に楽しい例会』
今や世界中が金融経済の低迷の真中におかれています。クラブにおいてもメンバーの事業に大きな影響を与える可能性があります。それ故 ”気” をしっかりもって、毎例会を楽しく、そして元気な時間として過ごせたらと思います。
京都で5番目に伝統あるクラブ (40周年記念誌より)
京都桃山ライオンズクラブは、京都洛陽ライオンズクラブのスポンサーにより1961年9月8日、25名のチャーターメンバーによって結成され、京都・洛陽・平安・葵の各クラブに続いて、京都で5番目のクラブとして誕生した。その中心となったのが斉藤丈一氏であった。同氏は伏見信用金庫の理事長という要職にあり、幅広い交友関係と地元金融機関の代表という地域事情に明るいことから、L浅野・L水谷・L藤本・L小山・L富樫などの優力な参加メンバーが募られた。余談ではあるが洛陽ライオンズクラブによるエクステンションの前にも平安ライオンズクラブのメンバーである御香宮の三木宮司を中心に新クラブ発足に向けて御努力をされたが、結成までには至らなかったということを初代会長のL小川やL吉岡といった先輩ライオンからお聞きしている。 私はクラブ設立から3ヶ月後の12月16日にL浅野をスポンサーに入会した。当時私は30歳の若き青年であり、ライオンズクラブへの入会を勧められたが、日本シリーズでチームを逆転勝利に導いた『神様、仏様、稲尾様』と言われた稲尾選手がいた西鉄ライオンズの後援会か何かだろうと思っていたぐらい、ライオンズクラブの事はまったく知らなかった。しかし、例会に参加するうちに、年齢も職業も違うさまざまな人たちが集まり、.we
serve我々は奉仕する.という精神のもとに、あくまでも個人と個人という対等な関係で、会話ができるライオンズクラブの和やかな雰囲気に魅力を感じたのであった。以来、40年の永きに亘り、活動にのめり込むこととなった。活動を通して、交友関係も拡がり、人生において大切な友人にも巡り会い、豊かな見聞や知識を身につけることができ、ほんとうに多くの事を学ばせていただいた。 さて、ライオンズクラブの設立式典は伏見信用金庫4階の会議室で行われた。四条河原町に店があったナガサキ屋からわざわざモダンな洋食が運ばれてきたことを覚えている。また、赤穂浪士の討ち入りと同じ人数、47名のメンバーが一同に集まったチャーターナイトは翌年の1962年6月3日、京都府立桃山高校の体育館で開催され、全国のライオン約1200人以上が出席。当日は雨降りでフェルト製のGIハットがぬれて縮んでしまったメンバーがいたことを懐かしく思い出す。奥様方はエクスカーションで2つのコースに別れ、宇治の茶踊り・万福寺見学と島原・本願寺枳殻(キコク)亭見学などで楽しい時間を過ごした。 設立当初、例会は伏見信用金庫の4階会議室で行われていたが、設立の年の12月には京都ホテルに事務局が置かれ、例会場も移った。通常ライオンズクラブの例会は月2回の昼12時15分から午後1時30分までとなっていたが、我がクラブの例会は昼12時45分から午後2時までと、他のクラブと異なっていた。クラブメンバーには医師が多く、土曜日の診察をすませて間に合う時間に設定されており、この伝統はいまも続いている。 戦後のバイタリティのあった時代にアメリカの社会奉仕活動が入ってくるタイミングがよかったのだと思う。瞬く間にライオニズムの精神は拡がり、続々ブラザーズクラブが誕生した。40年という歳月を振り返るとき、時間の流れの早さを感じるとともに、21世紀を迎えた今、社会のさまざまなシステムや環境が急激に変化し、その対応と変革が求められており、このような社会情勢の中で、ライオンズクラブの運営・事業・奉仕等に対し、問題意識を持ち、その認識を共有することが必要であろう。いま、クラブは若い力を欲している。若い力が活きる場は、常にこの問題意識を持ち、先達や先輩ライオンの知恵を学び合い、世代を越えて一人ひとりが平等な仲間として大いに議論をしながら活動するところに、活力と自由闊達な発想が生まれると私は信じている。
記・L園城眞治 |