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世界遺産”熊野古道の旅”

最近歩いた熊野古道特集”闘鶏神社”

闘?神社(とうけいじんじゃ)は、和歌山県田辺市にある神社である。旧称は田辺宮新熊野。通称 権現さん。

允恭天皇8年9月、熊野権現(現在の熊野本宮大社)を勧請し、田辺宮と称したのに始まる。白河法皇の時代に熊野三所権現を勧請した。平安時代末期の熊野別当湛快のときにさらに天照皇大神以下十一神を勧請して新熊野権現と称し、湛快の子の湛増が田辺別当となった。弁慶は湛増の子と伝えられ、その子孫を名乗る大福院から寄進された弁慶の産湯の釜が当社に残る。

田辺は熊野街道の大辺路・中辺路(熊野古道)の分岐点であることから、皇族や貴族の熊野参詣の際は当社に参蘢し、心願成就を祈願した。熊野三山の全ての祭神を祀る熊野の別宮的な存在であり、当社に参詣して三山を遥拝して山中の熊野まで行かずに引き返す人々もいた。

『平家物語』などによれば、源平合戦の時、湛増は社地の鶏を紅白二色に分けて闘わせ、白の鶏が勝ったことから源氏に味方することを決め、熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣したという。このことから「闘鶏権現」と呼ばれるようになり、明治の神仏分離の際に闘鶏神社を正式な社名とした。

熊野古道の旅・本日の王子社”三鍋王子”

 千里王子からJRの線路沿いに進み、高架をくぐって南部峠のゆるやかな上り坂を登りきると、南部峠の石仏が待っている。そこから峠を下り、南部川をわたって、南部駅のへ向かう街路の傍らに社地がある。県指定史跡(1958年〈昭和33年〉4月1日指定)。

『中右記』10月12日条に南陪山の麓にある王子社で奉弊をしたとの記事があるほか、「熊野道之間愚記」に「三鍋王子」との記述が見られる。1877年(明治10年)に、千里王子と同じく須賀神社に合祀された。須賀神社はさらに1909年に鹿島神社を合祀して鹿島神社に改称している。鹿島神社の社殿は王子社の旧社殿を移築したものであるという。境内には小栗判官ゆかりの小栗井戸が遺されており、また数多くある巨石の大半は板状卒塔婆で、三鍋王子の神宮寺であった安養寺から鎌倉時代以降に移されたものである。

鹿島神社は南部駅から南東約700mほどのところにある。そこから海岸に出ると、2kmほど沖合いに鹿島という島がある。この島の形が3つの鍋をひっくり返したように見えることから「みなべ」(三鍋、南部)の地名の由来になったと伝えられる。


熊野古道とは

 熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社など熊野三山への参詣の路を熊野古道と言います。古くは山伏達が神武天皇の東征以前から道を開いてきたとされ平安時代に入ると上皇や貴族、江戸時代には庶民達が伊勢参りと並んで熊野参りを旅するようになり蟻の熊野詣と呼ばれるようになりました.。また高野山から熊野本宮大社までの小辺路、吉野から熊野本宮大社までの大峯奥駈道も熊野古道として世界遺産に登録されています。

熊野古道・伊勢路と紀伊路

 熊野古道には大きく分けて二通りのルートがあります。先に紹介した熊野古道紀伊路と熊野古道伊勢路に別れます。伊勢路はすでに中世から「熊野に参るには紀道と伊勢路のどれ近し、どれ遠し、広大慈悲の道なれば、紀道も伊勢路も遠からず。」紀道(紀伊路)は京都を基点に大阪から和歌山田辺から山の中を分け入る中辺路を通り本宮大社向う平安時代の熊野古道のメインコース。
 伊勢路は京都から伊賀越えや鈴鹿を越え長島に到り海岸線を通り伊勢から本宮大社に向かい進むコース。伊勢路も紀伊路も遠からずとありますが、実際には伊勢路のほうが楽であったとされています。その理由は、同じ熊野古道でも紀伊路が殆ど歩かなければいけなかったのに対し、伊勢路は長島から船で行けたからでしょう。

紀伊路詳細

 紀伊路(きいじ、古くは紀路〈きじ〉とも)は、熊野三山への参詣道・熊野古道のひとつ。淀川河口の渡辺津(摂津国)から一路南下、和泉国を経て、雄ノ山峠を越えて紀伊国に入り、紀伊田辺からは大塔山地周縁部を東進して熊野本宮大社に至り、熊野速玉大社・熊野那智大社を結ぶ。

中辺路詳細

 紀伊路から田辺で山の中を分け入る中辺路と海辺を通る大辺路があります。熊野古道の中でも中辺路は平安時代からも貴族たちの熊野古道としての参詣道のメインルートとされてきました。熊野古道の王子社の殆ども紀伊路から中辺路に沿って建てられています。現代でも熊野古道のメインルートとして人気の在るコースでハイカーや観光客などが多数訪れています。

大辺路詳細

 熊野古道で大辺路は紀伊路で大阪から和歌山県の田辺で山の中を分け入る中辺路と海辺を通る大辺路とに別れています。熊野古道のメインルートとされる中辺路と違い大辺路は王子社の数も少なく国道42号線に吸収されて所々の峠道を残すのみとなっていました。現代では大辺路は地元有志のかたがたによりだいぶ発掘が進み、白浜の富田坂、日置川町からの仏坂、周参見町からの長い坂などが熊野古道として世界遺産に登録されています。熊野古道での中辺路と違い大辺路は近世には文人墨客に愛さが残されています。

伊勢路詳細

熊野古道の伊勢路(いせじ)とは、伊勢国・伊勢神宮から、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へ通じる参詣道であり、熊野古道のひとつである。『東海道中膝栗毛』にも登場する。

古くから、伊勢神宮と熊野三山を結ぶ交通路で、「伊勢へ七度、熊野へ三度」と呼ばれる信仰の路であった。

小辺路

高野山から熊野本宮大社への道を小辺路と呼ばれています。奈良県の野迫川村から十津川村を越えて熊野本宮大社までの72`の最短コースと言いながら標高1000メートルを越える峠を3つも越すと言う大変に険しい山道です。

大峯奥駈道

吉野から熊野本宮大社までの道のりで熊野古道の中でも大峯奥駈道は修験道として知られており大峯山寺より1500メートル級の山々を越え170キロにも及ぶ道のりを熊野本宮大社まで行かなければならない。

雲取越え

雲取越え(くもとりごえ)は、熊野三山の内の熊野那智大社と本宮大社を結ぶ参詣道。大雲取越え、小雲取越えの2つの区間に大分される。

 
 中世に確立した熊野詣においては、参詣者はまず熊野本宮大社に参詣し、その後、熊野川を下って熊野速玉大社に、ついで陸路で熊野那智大社に詣でてから、同じ道をたどって再び熊野本宮大社に戻るのが通常の行程であった。しかし、例外的に那智山を越えて本宮へ直行する峠越えの道がたどられることがあった。そのルートが、この雲取越えである。建仁元年(1201年)の後鳥羽上皇の4回目の参詣がその例で、藤原定家が記録を残している(後述)。この場合の雲取越えは派生ルートとしての性格をもつが、熊野詣にかわって西国三十三箇所巡礼が盛んになってからは、むしろこちらが主要ルートとして位置づけられるようになる。


熊野三山

熊野三山(くまのさんざん)は、熊野本宮大社熊野速玉大社熊野那智大社の三つの神社の総称。熊野三山の名前からもわかる通り、2004年に、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、高野山などとともにユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。日本全国に約3千社ある熊野神社の総本社である。

熊野本宮大社

熊野本宮大社は元々は熊野川の支流である音無川と岩田川の合流する中州の大斎原に在りましたが明治22年の大洪水の為に上四社以外の社が流失し残った四社を現代の丘の上に移動させました。主祭神は家津美御子大神(スサノオノ尊)を主祭神とし証誠殿を第三殿として中央に祀りしその西に熊野夫須神(イザナミの大神)・事解之男神を祀る第一殿、速玉之男神・イザナギの大神を祀る第二殿、反対側に天照大神を祀る第四殿を合わせて上四社と言います。

熊野速玉大社

熊野速玉大社は熊野川河口近くに鎮座し熊野年代記に寄れば、最初は神倉山に天降りました熊野三所権現(熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神)を景行年間に現代の場所に遷座し新しいお宮なので新宮となずけられました。神倉山の元宮は現代は速玉大社の摂社となり神倉神社と呼ばれています。御神体はゴトビキ岩と言われており神々が降臨したと言われる巨岩です。

熊野那智大社

熊野那智大社は高さ133メートルから流れ落ちる那智の滝への信仰から始まったとされています。神武天皇が那智の海岸に上陸した時、那智山に光り輝くものが見えて大滝を見つけ神としてお祀りしたのが始めだとされています

高野山詳細

高野山は和歌山県伊都郡、紀ノ川の南方、海抜100メートルの山上にあり、周囲を高峰に囲まれた東西6キロ南北3キロの盆地である。
 今から1200年前の昔、大同元年(806年)弘法大師が唐より帰朝後、真言密教の道場を開くため、都塵を離れた幽玄の地を紀伊、大和の山中に探し求め、この地に嘱目なされた。弘仁7年(816)、ここに真言道場を開きたき旨を、時の帝、嵯峨天皇に上奏して高野の地を賜ったのである。当時賜った地域は広範なもので寺領一万町歩といわれている。翌同八年、諸弟子及び工人等多数を伴い登山され、開山に着手なされた。これが高野山金剛峰寺のはじめである。

伊勢神宮

伊勢神宮 概要

 建物は皇大神宮(こうたいじんぐう)と豊受大神宮(とようけだいじんぐう)からなる。通常は皇大神宮を内宮(ないくう)と呼び、豊受大神宮を外宮(げくう)と呼ぶ。内宮は天照大神(あまてらすおおみかみ)、外宮は豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祭る。近世江戸時代を除いて、古代から政治的権威と結びつくことが多かった。

広くは、別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)を含めた一連の社宮を神宮と総称する。この場合、所在地は伊勢市にとどまらずまたがる。

大峯山寺

大峯山寺(おおみねさんじ)は奈良県吉野郡天川村にある修験道の寺院である。大峯山の中心である山上ケ岳の山頂に建つ。平安時代初期からの女人禁制で、毎年5月3日に戸開式(とあけしき)、9月26日に戸閉式(とじめしき)が行われる。この間に全国の山伏が、大人も子どももすべて男性の大峰詣(山上詣)の人を先導しながら入山する。 世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。役行者霊蹟札所。

九十九王子と五体王子

王子は参詣途上で儀礼を行う場所であった。主たる儀礼は奉幣と経供養(般若心経などを読経する)であり、神仏混淆的である。だが、よく言われるような熊野三山遥拝が行われた形跡は(少なくとも史料上では)確認できない。また、帰路にはほとんど顧みられることがないことから、物品の補給をおこなったとする説もあたらないと考えられている。これらの儀式が王子で行われたのは、王子とは熊野権現の御子神であるとの認識があり、すなわち参詣者の庇護が期待されたのである。

ところで、九十九王子の中には五体王子(ごたいおうじ)と呼ばれる王子があり、他とは格式を異にするとされる。これらは一般に、熊野の主神の御子神ないし眷属神として三山に祀られる神々のなかでも、五所王子と呼ばれる神々(若一王子・禅師宮・聖宮・児宮・子守宮)を祀る神社であり、三山から勧請したものと考えられている。これら五体王子では、舞・白拍子・神楽・猿楽などが行われており、芸能的性格が強いと一応は言えるが、これらは他の王子でも行われており、顕著な特徴とは言えない。なお、五王子と書くのは誤りである。

いずれの王子を五体王子に数えるかは、これまた解釈の相違があり、修明門院参詣記では籾井(樫井)・藤代・稲葉根の3社を挙げるが、後鳥羽院参詣記は藤白王子のみが該当し、稲葉根王子がこれに準じるとしているが、他の列挙例もあって一貫しない。現在では、諸史料から最小公倍数をとって、藤白王子・切目王子・稲葉根王子・滝尻王子・発心門王子の5社とするのが一般的である。

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(参照 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) (参照 熊野古道案内

それでは熊野古道の旅中辺路へ

熊野古道の旅、中辺路

熊野古道の写真ドリに自ら行く事にしました。そのときに行ったコースの事や出来事などを写真と合わせてお届けしたいと思います。
熊野古道といっても範囲が広いものです。京都、奈良、大阪、和歌山にまたがっており、全部、行くにはまだまだ時間のかかるもので御座います。とりあえずは、中辺路や本宮周辺から始めさせていただきます。(熊野古道ではもっともポピュラーなコースです)

大峰山寺
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