| 1. まえがき | 2. 幼児期の不思議な夢 | 3. 幻聴?、くの一? | 4. 正夢(まさゆめ) |
| 5. 幽霊? 亡霊? | 6. 父妃殿下? | 7. 早逝された同級生 | 8. 昔の師のお屋敷 |
| 9. 飛行機のこと | 10. 火災の第一発見者 | 11. ピシッという音 | 12. こおろぎ |
| 13. 「おーい」と呼ぶ声 | 14. クォーク粒子 | 15. 教授の怒り | 16. 音楽の先生の怒り |
| 17. C型肝炎ウィルスに感染??? | 18. 札幌市内でホワイトアウト(猛吹雪) | 19. ジェーン台風 | 20. 平成10年台風第7号 |
| 21. 首都高のランプでガス欠 | 22. 北海道でヤマビルを見た!! | 23. 私の目は青目 ? | 24. 前触れの夢 ? |
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25. 東日本大震災と原発大事故の放射能
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26. あの光は何だろう。UFO ? | 27. 父の宝くじが当選 | 28. 交通事故 |
| 29. 母の死 | 30. 化学会社で起きた爆発事故の予感 | 31. あとがき | 付録 1 福島県いわき市四時川渓谷 の紅葉など |
| 付録 2 変わった道路表示と交通安全看板 | 付録 3 ベニテングダケ |
1. まえがき
生まれてから1週間経った頃から既に勘が強すぎるというわけで、 ご近所の方々のお勧めでお灸をすえられた特異の赤子時代でした。 極く僅かの物音でギャーと泣き始めたが最後、 何時間も泣き止まず、両親は途方に暮れ、ご近所も困惑の毎日だったそうです。 たまたま静かに寝ている赤子の私の傍を母が通るときは、 起こさぬよう、それは大変な神経を使い、足音さえ立てずにそうっと歩かなければならなかったといいます。 ある日、母が「もう、こんな子はいらんわ。」と言って、縁先から庭に放り出したそうです。 遊びに来ておられた同じ日石社宅に住む赤沢さんのおばさん(新潟県柏崎市ご出身)が「まあまあ、そんなことを言わずに。」と言って、 拾い上げてくださったとのことです。後年、小学校のときに赤沢さんから「あなたは親不孝だったよ。これから親孝行しなさいよ。」と会うたびに言われました。
終戦直後に尼崎市西字本田の本田社宅に引っ越しましたが、床屋に行くときも大変で、 バリカンで刈ってもらう間、火のつくように泣くので、連れて行く母親が戦々恐々でした。 これを知った父の取引関係で懇意にして下さっていた富高さんが、わざわざ幼児の私のために、 手動のバリカンをプレゼントして下さったのですが、母は不器用で、父は仕事が多忙につき、殆ど使わなかったようです。 また、私が絵を描くのが好きなのを見て、私専用の小さな机を作って下さいました。 私の左耳が超敏感で、バリカンの音が耳を刺激するだけでなく、左わき腹が非常にくすぐったくなって呼吸が出来なくなるほどの苦痛に 際悩まされるからです。この理由を両親は知らないままで終わっています。20歳代まで左耳のこの現象が残り、 バリカンが左耳を通過する毎に呼吸を整えながら、左わき腹の苦痛に耐えるのです。多分、野生動物的本能が左耳に残っているのだと思います。
[註1] 聖鐘幼稚園、 聖公幼稚園 : 1948年(昭和23年)に園長の笠井満男先生と奥様の 武田昌子先生のご夫妻によって 神戸市東灘区森にある森会館を借りて開園した 私立聖鐘幼稚園に、 私は第1期園児として通っていました。母が尼崎市内の幼稚園に応募しようとしたところ、どこも定員満員でした。 たまたま、阪神電鉄武庫川駅の脇の武庫川を渡る歩道橋で出合ったご婦人に「この辺に幼稚園はないでしょうか。」と尋ねたところ、 そのご婦人が武田先生で、「神戸に私達が幼稚園を開園する予定なので、ご一緒に通いませんか。」と言って下さったのが切っ掛けでした。それで、毎日、 もう1人の可愛い園児・高柳富貴子ちゃんと一緒に、両先生の引率で下り阪神電車の武庫川駅から西宮東口まで乗りました。そこで、園長の笠井先生が市役所に出勤され、 あとの私達は国道電車 (当時、国道2号線[阪神新国道] の中央に阪神電鉄経営の路面電車がありました) に乗り換えて、「森市場前」という停留所で下りました。 そこから北に歩いてまもなく、国鉄・東海道本線の踏み切りと出合う所にある聖鐘幼稚園に通いました。 そういう関係で、私は先生方から可愛がられ、私が小学生になってからも、お子様がいなかった先生方に、六甲山ハイキング、 箕面の滝の炊飯ハイキング、仁川への炊飯ピクニックなど、 行楽に連れて行って下さいました。どうも有り難うございました。御礼申し上げます。 その10年後、聖鐘幼稚園に代えて、先生方は近くの東灘区中野に聖公幼稚園 を発展的に開園なされたと、お手紙で伺っています。 その後、まことに残念ではありますが、武田昌子先生がご逝去なされていました。笠井満男先生は現在もなお、100歳のご高齢で健在と伺っています。 さらにご長寿であられますよう、お祈り申し上げます。 なお、聖公幼稚園は1980年頃(?)に閉園しています。(園長先生のご高齢と少子化の理由が考えられますが、確かめていません)。 また、幼稚園のあった2ヶ所の近辺は、阪神淡路大震災によって一部の建物を除き、 壊滅的な打撃を受けていました。 さらに、上記の仁川ピクニックセンターも、近くの新興団地が一瞬の山津波に飲まれて 大惨事になったと報道がなされました。 現在は復興していると思います。 |
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尼崎市立大庄小学校に昭和24年(1949年)に入学し、1年1組、2年10組、3年1組を、豊田幸子さん、上島美智子さんとともに最優秀の児童で過ごし、
毎年、学芸会では主役と準主役で演劇に出演して観客を沸かせていました。この3学年とも担任の先生は
宇佐見孝先生
(または、宇佐見孝子先生)
[註2] でした。
先生には大変可愛がっていただき、また、大変お世話になりました。有難うございます。
次の画像の下段の左と中に示す演劇「良寛と兎」の練習は、 3階鉄筋コンクリート造りの校舎の屋上で行いました。 ある日の夕方暗くなって、指導の先生が職員室に戻った休憩のときに、 どういう切っ掛けか突如、 天女姿の女の子達一人ひとりが、 僕たち男の子一人ひとりを襲い始め、 僕もある女の子に馬乗りに組み伏せられてしまったのです。このとき初めて、妙な快感を覚えました。まあ、子供のお遊びでした。 [註2] 宇佐見孝子先生、 宇佐見正氏(その2、 その3) : 1949年4月から1953年3月までの小1から小3までの間ずっと学級担任でいらした宇佐見孝子先生は、京都ご出身の上品でかつ温かみのある大変教育熱心な先生で、 すべての児童を優しく教育して下さいました。朝日新聞社にお勤めになられていた旦那さんはお亡くなりになっておられて、 未亡人でした。 ご子息様の宇佐見正氏も神戸大学経済学部をご卒業の後、 朝日新聞社に入社され、新聞や週刊朝日や著書等に皇室関係や宝塚歌劇団関係の執筆で著名であられました。 お二人とも兵庫県芦屋市公光町にお住まいでした。 宇佐見孝子先生には私の勉学や日常生活に、また母をも含めた交流に、多大なお教えとご支援を賜りました。厚く御礼申し上げます。 まことに残念ではありますが、先生はご高齢で1970年代にお亡くなりになりました。 一方、これも傷ましい話なのですが、宇佐見正氏は阪神淡路大震災の犠牲となられました。 ここに、ご冥福をお祈り申し上げます。 私たち少年の頃に芦屋海岸に海水浴に連れて行って戴くなど、大変お世話になりました。 |
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今どこに保管されているのだろう。伊藤先生のお話では、審査員の評は「これは小学生の絵ではない。大人の絵だ。」とのこと。 そういえば、前の学校(尼崎市立大庄小学校)の校内展覧会でも入選の常連でしたが、ある日、 担任の宇佐見孝子先生は母に 「山本君は絵が非常に上手なのですが、ほかの子たちと違って山本君の絵は暗いですね。」と仰った由。 あの特選の絵は阪神淡路大震災を乗り切ったのだろうか。探していないので行方は分からないままです。
飴先生は実直で正義感が強く、児童が不貞なことをしているのを見付けると、 「コラッ。山本ッ。貴様は何をやっている。こっちへ来いッ。」 というように児童を呼んで、容赦なく往復ビンタを食らわせます。 (私は真面目でしたので、この経験はありません。念のため。) 悪童どもは、飴先生の名を聞いただけで顔を青ざめ、恐怖で震えるのですよ。素晴らしい先生でした。 現在、このような先生が居られなくなり、教育現場が難しくなっています。 この年(1952年)は精道小学校創立85周年に当たり、記念講堂が落成し、 この講堂で盛大に記念式典が執り行われました。全児童に、立派な記念誌が配布されました。 なお、この年(1952年)の夏、甲子園で開かれた全国高校野球選手権大会で、地元の県立芦屋高校が優勝しています。 ちなみに、精道小学校の授業時間や休み時間の合図は、甲子園球場と同じようなサイレンでした。今は、分かりません。 なお、伊藤慶之助先生の"下のお名前"と"先生の関連サイト"は、2009年9月14日(月)に サイト「伊勢志摩きらり千選」の 掲示板での偶然の出会いで、 アートタキさんから教えていただきました。有難うございます。 また、私が2009年8月30日(日)夕方に三重県志摩市阿児町立神 にある西山慕情ケ丘展望台に来たとき(下図参照)に、 偶然、石倉 明氏(伊勢の方)と「 志摩の鳥人 (その2)」で有名な松本高正氏と出会い、 石倉氏(昔のハンドルネームが A.I さん)が投稿されているサイト「伊勢志摩きらり千選」を 教えていただいたことが切っ掛けでした。 有難うございます。 |
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北海道札幌郡手稲町(現・札幌市手稲区)の手稲中学校1年生の冬(1955年[昭和30年]12月)に、 氷点下10度の中、級友のクリスマス会の往復4キロの雪道を竹スケートで走ったときに、極寒の空気を肺いっぱいに吸い込んだためか、 急性気管支炎になってしまい、それが慢性化して元に戻るまで2年を要しました。
もう1つ、中1の冬(1956年[昭和31年]2月)に、家近くの三宗の丘の小道を1人でスキーで滑走していたときに、 Y 字形に小道が合流する地点で6人の少年少女の乗った鋼鉄製の犬ゾリと衝突し、 私のスキーはソリの下にもぐりこみ、私の体はソリに乗った少年たちの上を飛び越えて、
[閑話休題] 中学校1年の初夏、 私は同じ日本石油社宅の二通さんのお兄さん(当時、中学校3年)と近所のそのお兄さんの同級生の方に連れられて、 近くのミツムネの丘を散策しました。このとき、同級生の方がどこか藪の中から採ってきた 「マツの実」とかいう木の実を分けて下さいました。 形と大きさは普通のグミの実そっくりで、色はベージュ(薄茶色)、口に含むだけで薄皮が破れ、 この世と思われない甘くて深みのある特有の味の果汁が口いっぱいに広がります。 私はこのとき、こんなに美味しい果物がこの世にあったのか、と感動。しかしその後、2012年8月になる今まで、 再びその果実を口にする機会がありませんでした。あれは何の実だったのだろうかと時々思い出すだけです。 つい最近、あるテレビ番組で、北海道出身の元 WBC 世界フライ級チャンピオンの内藤大助さんが子供の頃食べていたグスベリーについてお話をされました。 このグスベリーだったのだろうか? なお、私の家(日本石油社宅)の玄関先にはイチイの木があって秋に真っ赤な実がなり、 近所の子供たち共々「オンコの実」と言って、美味しく食べていました。 (2012年8月22日(水)記) 僅か半日に70センチも降った大雪の直後の1956年12月の中2のときに、手稲町の真っ黒な社宅から札幌市内に新築された 日本石油㈱藻岩アパートに引っ越しました。
1950年代の小学校高学年で、「心に太陽を、唇に歌を」と習いましたが、再度、初等教育に盛り込めば、 少しは世の中が明るくなるかも知れません。 [参考] 中学校1年の同級のある女子の方が2011年11月に私のことを思い出して仰るには、 「今風ですと完璧なイケメンさん、 当時は乙女心に上品で お目々が綺麗だなぁ~とお見受けしておりました。」と人づてに伝えられました。 嬉しいではないですか。 (皆々様、有難うございます。多謝。 もし、この掲載にお怒りならばご連絡ください。 削除いたします。) 私の妻がひたちなか市佐野公民館の主催事業である「ギター教室」に月2回のペースで習っていますが、 2012年1月11日に、千葉慶博先生の奥様の毎子様が私の妻に「あなたの旦那さんは素敵ね。 ご一緒にギターを習われたらいいのに。」と言われた由。 私はもう69歳になっていますが、そう言われるとやはり嬉しいですね。 手前味噌ですが、こういうことは時々あり、よって私は人前に出るのをためらうのであった。 以上の生い立ちを勘案の上、以下をご覧ください。 return |
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2. 幼児期の不思議な夢
(1) 未だ歩けない頃、母が外出している間は布団に寝かされています。 周りが暗くなっても母は帰っていません。 そのうち、畳の下から大きな赤い手が2本、私の体を蹂躙します。 私は恐ろしさにギャー。母の帰宅まで泣き続けます。この夢とも現実とも区別がつかないことが再三起きました。 (2) 2才から5才くらいにかけて何度も何度も同じ夢、夢とも現実とも区別がつかない次の夢を見ていました。 家族が寝静まっている深夜、台所のかまどの方から戦国時代の戦のような「ワーーッ。ワーーッ。」と大勢の時の声が聞こえ、 次第に寝ている私の方に攻めてきます。頭が割れんばかりに鳴り響きます。「ワーッ。恐いよー。」と恐怖に慄きますが、身動きが取れません。 ところが、寝ている私の直前まで来ると、ピタッ、と止み、スーッと元の静けさに戻ります。両側に両親が寝ていて、天井には幼児の僕のために豆ランプが寒々と点いているだけです。 と、その内、また、かまどの方から時の声が上がり、再び私の方に攻めてきます。私の直前まで来ると、また、ピタッ、そしてスーッ、と何事もないように止んで、 元の静けさに。これが3,4回繰り返した後に、今度は同じかまどの方から、蒸気機関車がシュッ、シュッ、シュッ、とゆっくり私の方に向かって来ます。 「大変だ。」と思うのですが身動きができません。私の直前まで来ると、フッ、と消えて何事もない元の静けさに戻ります。 豆ランプだけが曰く有り気に点灯しています。 この夢を幼児期にしょっちゅう見ていましたので、大人になっても「あれは何だったのだろうなあ。」とよく思い出します。 母から、先祖が戦国時代に上杉謙信と無関係ではなさそうだ、という感じの話を後年聞いたのですが。 return |
私が東北大学工学部2年前期に、広瀬川畔の下宿専門のアパートの2階の4畳半に下宿をしていました。 下宿の真向かいの断崖の下にある大きな屋敷の2階には、短大生と高校生の姉妹2人 [註4] が生活していました。 期末テストの最中から、その向かいの2階の窓の外に、巨大な雨合羽のようなものが幾日も逆さに吊るされ、 室内からかなりの音量で当時流行っていた「悲しき雨音」が流れてきます。 一寸変だな、という程度の気にはなっていました。 前期期末テストが無事終わり、期末休みが始まった1963年10月の霧の深いある夜にくつろいでいたときに、 左耳奥に「結婚して頂戴。」という3人位の女性合唱のような声を感じました。
そういえば、直前の夏休みに、新潟美人の従妹がわが下宿に遊びに来ていて、3日間、行動を共にしたのを嫉妬されたのかな。 ウーム。 向かいの屋敷は青葉城に最短距離にある要害の地形をなしていて、 伊達藩時代によそ者を警戒する忍者の末裔なのかも知れない、と想像を巡らすものの、 私の奇妙な現象を説明できません。 「幻術でやられたのかもしれない。」と思って一寸怖くなりましたが、 幻聴以上のことはなく、特に気にしなければそれで済みます。 この幻聴はどういう理屈で起こるのだろうかと、心霊研究所に相談しようかとも思ったわけです。 興味半分に「よし、向かいの屋敷を探って見ようか。」とも思いましたが、探る術はなく、このままではマズイので下宿を変えました。しかし、以前ほどではなくなりましたが、時々、屋敷のある方向からその同じ声がレコードのように左耳奥に感じました。
[註4] この姉妹の母はいつも地味な和服姿であるが、長身で精悍な感じ。 父は小柄。 姉妹のさらに上に結婚している姉とその幼女が同居し、姉妹の下に弟もいるかなりの大家族。 この家の男衆は目立たずおとなしい。いつも女性の立ち振る舞いと声が目立ち、いつも幼女に大声で「アッ子、アッ子」と呼んで可愛がっている。 この姉妹2人の上の娘とは、私たち下宿生と前の路上で時々立ち話をしていた。町内の夏祭りの野外映画を見ていたとき、 ふと後ろを振り返ると当時高校生であった下の娘が私の後ろにピッタリとくっついていたのでビックリしたことがある。 後年、小学校の同窓会名簿で分かったのですが、結婚していた一番上の姉は、なんと、私の小6 のときの隣のクラスの子であった。 なお、この年1963年にザ・ピーナッツの「恋のバカンス」が爆発的に流行していました。 このことがあった2、3年後に、くの一(女忍)ブームが爆発的に流行ったのです。偶然にしては不思議です。 それまでの忍者物といえば100パーセント男であり、その主流は、猿飛佐助、霧隠才蔵 などの真田十勇士や地雷也などでした。 伊賀、甲賀忍者や服部半蔵の忍者ブームはもっと後のことです。 また、同じ頃に、アメリカで流行った「奥さまは魔女、 ( その2)」のホームドラマが我が国でも人気を博していました。 今でも、「あれは何だったのだろう。」と考えることがありますが、皆目分からないままです。 常人が何気なく体験するという空耳とか以心伝心の類なのか? しかし、年とともに勘が鈍くなってこの現象はほとんどなくなりました。逆に、これは若さがなくなるようで寂しくもあります。
最近では珍しいことですが、ある朝、起き掛けにリラックスしていると、不意に、左耳奥に誰か女性がつぶやくような 「暮らしていけない!」という声ともいえない声のようなものを感じました。 「アレッ?」と一寸驚きながら、それは私の意識の外のことであり、我が身と周辺を考えても思い当たる節がありません。 近隣の誰かがお金の工面で苦労しているのかな、と真偽は分かりませんが思い過ごすわけです。まあ、空耳でしょう。 また、一頃、頭が冴えている状態で1人で運転しているある日、たくさんの対向車とすれ違う中で、 一例として、ある車がすれ違った瞬間に「ムショ」という言葉が左耳奥に飛び込んできました。 咄嗟に、あの車の運転手は刑務所に入ったことがあるのかな、と思ったわけです。 同時に、もし、私の欠点が他人に同じような現象で伝わったとしたら嫌だな、と緊張し、慎重になることもありました。思い過ごしとは思いますが。 そういえば、私が子供の頃、突然、母が「今、何か言った?」と私に聞くことがありました。 いま自分の思ったことを悟られたのかな、と私はハッと緊張しつつ、「何も言わないよ。」と言うと、 母は「空耳かしら。」と首を傾げながら、再び家事を続けるのでした。 これを書いているときに思い出したのですが、故・福田赳夫・元内閣総理大臣が隆盛の頃に 「天の声に支えられて・・・」のような類の発言があり、 退陣間近の頃は「天の声にも変な声がある。」と発言をなさっていました。 直接関係はないのですが、上記のおかしな事が起きたわずか数日後にアメリカの ケネディ大統領が暗殺されました。 第2次世界大戦後の約20年間、少なくとも自由諸国で平和を謳歌していましたが、この 事件の謎(真相)が残されたまま、この事件を境に世界は、 ハイジャック、テロリズム、紛争、戦争、経済危機などの不安な情勢が続き、現在に至っています。 return |
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4. 正夢
私の学部、および、大学院時代の1964年から1970年にかけて、4つの正夢を見ました。生涯これ以外の正夢は見ていません。 普通の夢は今もほとんど毎日見ています。平穏な夢ばかりです。
そのとき私は東北大学工学部在学中でしたので、仙台に下宿をしていました。1964年秋のある朝、一人前に大きくなった柿の木がもだえ苦しんでいる夢を見たのです。 枝という枝を動物のようにくねらせて。大学に向かう自転車に乗っているときもそのことが気になって 「何処の柿の木でどうしたんだろう。」と思い続けました。 そのときは、10年も経っているのに、鉢植えのため成長を止められていた可哀想な柿のことなど全く 及びもつきませんでした。 冬休みになって広島の自宅に来たときに開口一番、無意識に母に「柿の木はどうなった?」と聞くと、母は「このあいだ、枯れてしまった。」と言うではないか。 私は「えエーっ。本当?」とビックリして、残念な気持ちと同時に、 「柿の木には苦労かけたなあ。ご免なさい。大きくなれず、実もならないうちに果ててしまって。」と神妙な気持はしばらく 癒えませんでした。母も寂しそう。 北海道の寒気から、暖かいとはいえ、いきなり水持ちの悪い広島特有の砂地に植えられて、衰弱したのであろう。 あの夢は、柿の木が苦しんで持ち主に伝えた「虫の知らせ」だったのだろうか。 その後、柿の苗を買ってきては庭に植え、また買ってきては別の場所に植えを繰り返しますが、 近所の子供たちや職人さんにうっかり踏まれたり、自然に枯れたりして、10回近く試みて、その全てが1メートルも育たないままダメになりました。 祟っているのでしょうかね。柿の木に関しては。
一方、その年の冬に父が日石を定年退職となったので、実家が日石社宅から大阪府高槻市東五百住町の 新興住宅地の2階建て一戸建に引っ越しました。 私は研究生活が多忙のため、引越しの手伝いができませんでした。この春休みに、父から届いた地図を頼りにその引越し先に里帰りをしました。 狭いけれど、まあ、いい家だなあ。いままで実家は社宅生活を続けてきて、今回が初めての念願の持ち家なのです。 早速2階に上がって窓の外を見た瞬間、アッ、と驚きました。何と、1ヶ月前に夢で見たあの景色と瓜二つです。 向こうの川岸にある家々も全く同じです。全ての色彩も。唯一違うのは川幅でした。 実際の芥川の川幅は20メートル位でしょうか。 これは、父が2階からみた景色が、テレパシーか何かで、仙台にいる私の脳裏に届いた、としか説明の仕様がありません。 偶然にしては、夢の景色が現実の景色と余りにもそっくり、というか、ほとんど同じなので。 この印象が強烈だったので、忘れることがありません。
雷雨に追われているときは必死でしたが、下宿に戻って一息ついたとき、アッと思いました。 これら全ての情景が1ヶ月前に見た夢そのものではないか。雨後の夜の仙台の夜景まで。 (4) 大学院博士課程在学中の1970年頃、仙台の下宿での夢の中で、ある山の上から下を見ています。 淀川が流れ、それに寄り添うように、東海道本線、阪急電鉄、東海道新幹線、国道が走り、向こう側も山が迫っています。 夢を見ながらも、上記の名前は認識していました。しかし、夢で眺めた景色は現実には見たことがなく、 何処から眺めたのかは全く分かりません。
ありました。見当を付けた場所から見た景色は夢とほとんど同じでした。今までも正夢を見てきましたので、驚きよりはヤッパリという感じでした。 その場所とは、岩清水八幡宮の境内の北はずれです。今までその場所を知らなかったのですが、このお陰で、 歴史や古典文学で有名な岩清水八幡宮に来ることができました。 向こうに見える山は天王山で、下に見える例の場所は、1582年に本能寺の変で織田信長に謀反を起こした明智光秀が、 備中(岡山県西部)から急遽取って返した羽柴秀吉に天王山の戦いで敗れた場所です。 よく言われますが、初めて行った場所なのに、前に来たことがあるような懐かしさを覚えると。 上記の正夢もこの類の延長にあると思います。なぜこのことが起こるかは分かりません。いろんな理由があると思いますが、1つに、 誰かが眺めた景色が何らかの理由で別の人の脳裏に伝わったのかな、とコジツケたりもしていますが・・・? return |
5. 幽霊? 亡霊?
ン? 頭の左側1メートル、畳から30センチの所に何かいるような気配。部屋は真っ暗なので何も見えませんが、 その人間の頭の大きさ程度の部分が周りの空気と違います。ジーと音ともいえないかすかな音のようなものがあり、 何かエネルギーが溜まっているような。とて、起きるほどの勇気と元気もありません。 何だろう。耳を澄ませますが、最初はそこにじっとして、それ以上のことは起きません。緊張して動悸は早まります。 とにかく眠らなければ、と焦りますが、段々とそういう心境ではなくなってきました。30分経った頃、 その見えないエネルギーの塊が自分の左側をゆっくり足のほうに移動します。かすかなジーという音を伴うかのように。??? それが少し離れたので気はやや楽になり、「気のせいかな、登山の疲れと暑さに気がおかしくなっているのだ」、と思いつつも 念のため、電灯を点けて部屋の中を点検しました。しかし、家具のない部屋は別に異常ありません。 「やっぱり気のせいだな」、ということで電灯を消して眠る努力をしました。暗くなるとやはり警戒心がもたげます。 5分間位は暗くなっても静かで何も異常はなかったのですが、・・・。
しかし、また次第にあの変な空気の塊が枕元に現れるのを感じます。 「大変だ。また、出てきた。」。「出あがったな。このヤロー。只じゃ置かないからな。」と心でその得体の知れぬ物を脅します。 その物はまた移動を始め、今度は右を回って腹から胸の上に来ようとします。気味が悪くなって、飛び起き、再々度電灯を点けて点検し、 30分位点けっ放しにして様子を伺いますが、何ともありません。 古びてはいるけれど、布団が敷かれた普通の畳部屋があるだけです。 焦りと恐怖と睡眠不足でもうフラフラです。あの暑さは引っ込んでしまいました。 時間を確かめる心の余裕もありません。夜中の2時かな。 数回これが繰り返されましたが、ついに、その得体の知れない重い物が胸の上に居座ったとき、なぜか急に呼吸が出来なくなったのですよ。 恐怖で鳥肌が立ち、「命が危ない!」と飛び起きて、電灯を点け、目を皿のようにして何気なく鴨居を見ると、その真ん中に、 縦5センチくらい、横2センチくらいで、黒と朱色のお経が書かれた札が貼ってあるではありませんか。 さらに、他の3面の鴨居にも同じ札が貼ってあります。 こんなのは後にも先にも見たことがありません。「ああ、この部屋に何か大きな事件があったな。」と思いました。「危なくて、この部屋には寝られない!」。 震える体をおして、旅館の主人を呼ぶと、主人と奥様がやって来ましたので、私は部屋に招いて、 あの札の経緯を尋ねました。 そのご夫婦は正座して下を向き、身動きもせずに黙ったままです。私もご夫婦の向かいに座って、この 2 時間の出来事を話し、 「この部屋に何かあったのですか。」と聞いても、やっとただ一言、小声で「どうも済みません。」。 宿泊を無理にお頼みしたことをすっかり忘れて、恐怖心から、私は「こんな部屋に泊まれるか。もう帰る。料金はいくら?」と言ってしまったのです。 「いや、料金は要りません。どうも済みませんでした。」と、 申し訳なさそうに頭を垂れながら、 憮然と立ち去る私を見送ってくれました。 この後、高崎駅まで深夜の町を歩いて行き、丁度到着した登山客で満員の上野行き臨時急行で早朝上野に着き、 急行「まつしま」で仙台に帰り、通常の日常生活に戻りました。恐いので、このことは少なくとも1年間は人に話さないで置こうと思いましたが、 結局、ここで公表するまで誰にも話していません。あれは真夏の夜の悪夢だったのか? ちなみに幽霊などは今でも信じてはいません。 だけど、あれは何だったのだろう。 return |
6. 父妃殿下?
1960年代は、皇太子殿下(今の平成天皇)と美智子妃殿下、そして、浩の宮さまの話題で持ちきりでした。浩の宮さまの未来の妃殿下についても 話題になり始めていました。美智子妃殿下と同様に民間から、しかも、今度は理工系の科学者の家系から、さらに、 新時代を反映して地方色豊かな優秀な人材から、ということを私は感じました。 浩の宮さまとの釣り合いを考えますと、未来の妃殿下は幼稚園の女児以下の年齢か、または、これから生まれる女児が候補になります。 その父親の目星を付けるとすれば、20歳代から30歳代の若い優秀な研究者、具体的には、 全国の有力大学の理工系の大学院博士課程の学生や助手、助教授あたりが極秘の調査の対象になったでしょう。 私の勘で、東北大学工学部電気系にも何かあったような。私個人もその大学院時代に何か行動を探られているような気配を感じ、 畏れ多くも、歩いている体や足などに、 漆黒の礼服や日の丸がまとわり付くような錯覚を覚えたことがあります。 歯の浮くような困った妄想でした。 当時そういった社会の底流を反映してか、 「瀬戸の花嫁 (その2」 の歌謡曲、 「ひみつのアッ子ちゃん (その2)」 の漫画、 「白いブランコ」や 「天使の誘惑、 (その2)」 や”京都 大原三千院 恋に疲れた女がひとり”の歌詞で風靡した 「女ひとり」 [註5] や 「白い色は恋人の色」や 「禁じられた恋」や 「この広い野原いっぱい (その2)」や 「夜明けのスキャット」 などのポップスが流行っていました。また、原曲は1956年アメリカなのですが、 フランスに渡ってシャンソンとなった「パパと踊ろうよ」が1960年代に日本でもラジオからよく流れていました。 逆に、1968年にアメリカでヒットしたポール・モーリア・オーケストラ演奏の 「恋はみずいろ (その2)」もラジオからよく流れていましたが、 最初は1967年にルクセンブルクのヴィッキーが歌っていたそうです。 オーケストラでも、例えば「夏の日の恋」や 「白い恋人たち」 のようなムードある曲が多くメディアから流れていました。 大分遡りますが、1956年の 映画「80日間世界一周」のテーマ曲 (その2、 その3) が10数年にわたってよく聞かれ、 海外旅行ブームの火付け役になっていました。 また、だいぶ後になりますが、 1971年に、シモンズの「恋人もいないのに」、 ザ・フォーク・クルセダーズの「あの素晴らしい愛をもう一度」のような純愛と悲恋を唄う歌があり、 そして、団塊の世代の結婚ブームの1973年に、チェリッシュの 「てんとう虫のサンバ」もありました。 逆に遡れば、1962年に、Ray Charles が歌う 「"I Can't Stop Loving You" 、 (その2)」 が連日ラジオから流れていました。また、1965年に「 砂に消えた涙 (その2、 その3)」という感傷的なヒット曲がありました。 その他、1960年代はそういったジャンルのポップスが世界各国から発信されていました。 直接関係ないのですが、上記の少し前に、父の所に、和紙の巻紙に達筆な筆で、要約すると「貴殿の息子様(つまり、私のこと)に、娘を是非お嫁に差し上げたい。 息子様が未だ学生さんなので、生活費は私が全て面倒を見ます。」というご丁寧な書状が舞い込んだことがあります。 父は困惑して、私に簡単な説明程度で「お前が未だ学生だから、お断りしよう。いいな。」と言うのを私も了解して、父は丁寧にその書状を返還したことがあります。 今思うに、何方からどういう経緯で結婚を申し込まれたのかを、父に詳しく聞いた方がよかったのかな。 [註5] 歌詞に出てくる女性はどういう方なのでしょうか。架空の女性なのでしょうか。興味がそそられます。 作詞家の永六輔さんにお聞きしなければ分かりませんが。 return |
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7. 早逝された同級生
私が40才代からこれまでに気になっていました同級生諸兄のことをまとめて書かさせて戴きます。期日はあいまいですので書きません。 札幌市立柏中学校3年3組の同級生で北海道立札幌南高校1年3組の同級生でもあった R. I. さん、 同じく柏中学校3年3組の同級生で札幌南高校では別のクラスであった N. K. さんは、自他共に認める美人で優秀な方でした。 特に親しいわけでも、また、特に心に留めるというわけでもなかったのですが、私が社会人になってから、 何も考えることがなくてボンヤリしている無心状態のときに、何となく脳裏に R. I. さん、 時には、 N. K. さんが浮かんでくることがよくありました。 彼女達はどうしているのかなあ、と思いながらも、彼女らは美人だから心に残っているのだな、とその時は考えるのでした。 その数年後の同窓会名簿を見ると、アーーッ、お2人ともご逝去されているのですよ。 これだけならば、同級生なのだから脳裏に浮かぶのは当たり前じゃないか、という反論もあるでしょうが、 現在ご存命の方については、無心状態のとき無意識に脳裏に浮かぶということは全くありません。 男子の同級生についても、高校にせよ、大学にせよ、5、6 名の方々に同じことが起こりまして、その度に神妙な気持になりました。 そういえば、大学院生のある時期の1週間、ほぼ毎日私の母方の田舎の叔父さんや叔母さんが懐かしく思い出され、 そのしばらく後に、父母の実家に里帰りしたときに、「亡くなられたよ」、とか、「意識不明の重態になられたよ」、と教えられたのであった。 父方の叔父さんの場合も同様のことがあり、後になって、「余命が幾ばくもないらしい」、と聞かされるのであった。 各家庭に電話が普及していない小6時代に、お隣の庭でたき火をして遊んでいたときに、お隣りの叔母さんから 「ある日、秋田にいる叔母さんの声が聞こえたような空耳がしたと思ったら、その翌朝、 そのおばさんの訃報の電報が届いたのよ。不思議なことがあるものね。」と聞かされました。仙台在住での話です。 この類の話は昔はよく耳にしたものです。世相が激変した最近は滅多に聞かれなくなりましたが・・・。 逆の場合もあります。小学校6年の同級で映画にも出演したことのある超美人の子が10年経った頃に、しょっちゅう脳裏に浮かぶので、 久しぶりに会った旧友(男子)に尋ねると、「年の若いうちに幸せな結婚をして静岡にいるよ」、とのこと。ウーン、難しい。 return |
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8. 昔の師のお屋敷
私が小学校3年のとき、定期的に近所のお友達と阪神電車・武庫川駅の近くにあるお習字教室に通っていました。 一戸立てのお屋敷の玄関脇の部屋を教室として使っていまして、お習字の先生は、兵庫県立尼崎高校の先生でもありました。 翌年に私が仙台に引っ越しましたので、その後、そのお教室のことはトンと忘れていました。 時が経ち、1990年代のある年の秋に、私は担任として茨城工業高等専門学校電気工学科4年のクラスを 関西地方の工場見学旅行に引率しました。最終日の前日は、学生共々各々が自由研修の日となっていましたので、 私は昔住んでいた懐かしい各所を巡り歩いていました。 日暮れも迫ってきたときに、ふと、 「そうだ。お習字の先生のお屋敷はこの辺だったな。」と思い出し、45年も前の記憶を頼りに向かいました。 アーーーーッ!何ということだ。丸焼けになっている。ご近所の叔母さんに伺うと、 「おとといの朝に火事になったのよ」。 それでも、あの懐かしい玄関と教室の面影がありましたので、 写真を撮ろうとしていると、品のよい中年の男性がやって来られ、 「何か御用ですか。」と仰るので、私は昔の経緯をお話ししました。 「ああ、そうですか。実はその書道教室を開いていたのは父でして、その父が、 ご先祖のご仏壇にいつものようにロウソクを灯しました。そのロウソクが倒れてしまいましてね。 そうと気付かずに、朝の散歩に出掛けてしまったんですよ。」 と説明して下さいました。先生はお元気でいらっしゃったのだ。 お気の毒の旨の言付けをお伝えし、後に、郵送でお見舞金を差し上げました。 当初、このお屋敷に立ち寄る計画は全くなく、ふと思い出して寄ったことがこの結果でした。虫の知らせがあったのでしょう。 return |
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9. 飛行機のこと
1945年までの太平洋戦争中に、兵庫県武庫郡鳴尾村州崎(現・西宮市)の大阪湾に注ぐ武庫川の河口に川西航空機製作所があり、 時々、日の丸を両翼に付けた飛行機が爆音とともに私の家の屋根すれすれの低空飛行をしていました。 これが恐ろしくて、庭にいても家の中に駆け込んで逃げたものです。 戦況が悪化して、アメリカのB29戦闘爆撃機の編隊が主に夜間、地獄のうなり声を上げて高空を飛来してきます。これも恐ろしい。 庭に転がっていた焼夷弾のかけらを、鉄道線路の一部と思って玩具として遊んでいました。庭に落下したものなのか、 それとも、父が爆撃を受けた勤務先から持ち帰ったものなのかは分かりません。 小学校低学年の頃、学校から帰ってきたときに突然ラジオ( NHK 大阪第一放送)から「臨時ニュースを申し上げます。 羽田空港を発った日本航空の旅客機・木星号が伊豆大島付近で墜落した模様です。 詳細は不明です。繰り返し申し上げます。・・・」が入り、印象に残っています。 時代が下り、1960年早春、私たちは東北大学工学部電子工学科3年の工場見学の一環として、三菱重工業㈱名古屋航空機製作所に 自衛隊機の製作現場を見学した後バスで移動中、窓から上空を見ると自衛隊機が1機飛んでいるのが見え、バスの仲間皆が 「あっ。自衛隊機だ。」と今見学したばかりの工場を思いながら見ていましたが、直ぐに視界から消えました。 2、30分してからでしょうか、バスのラジオからニュースで「つい先ごろ、自衛隊機が墜落した模様です。」と告げるではありませんか。 「オイッ。さっき見た自衛隊機ではないのか。」と皆騒然となりました。 1966年2月から3月にかけて、私は電子工学科4年の卒研の最中でしたが、当時、研究室の先生方と心の中でかなりの確執があり (先生方、済みませんでした)、当時片平丁にあった研究室を抜け出して、 悶々として仙台市内を自転車で徘徊していました。 その夜、1966年2月4日、全日空ボーイングB727機が着陸直前に羽田沖で墜落、1ヵ月後の1966年3月4日、 カナダ太平洋航空機 CPAL DC8型機の羽田空港で着陸失敗で大破炎上、 翌日の1966年3月5日、イギリス航空機 BOAC B707型機が富士山の乱気流に巻き込まれて空中分解して富士山麓に墜落、 という航空機事故が立て続けに起き、総計300人以上の犠牲者が出ました。海外ニュースに、"日本の空は狂っている"、という論評が出た程です。 私の心が乱れたとき、何かが起こるのではないか、という恐怖心が芽生えたのです。 1982年2月9日の着陸直前の日航羽田沖墜落事故(日航逆噴射事故)や、1985年8月12日夕方に、大歌手の 坂本 九 ちゃん (その2、 その3) が乗った日航機がダッチロールの果てに群馬県の御巣鷹山に激突した事故は未だ記憶に新しいところです。 そういう訳で、私は飛行機には乗るまい、と心に誓ったのです。 ただ、新婚旅行だけは我慢して搭乗しましたが。
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10. 火災の第一発見者
これは不思議なことではないですが、普通ではまず経験しないであろうということがありました。 1961年2月に札幌南高校を卒業しました。(当時、高校の卒業式は早かった。) 卒業式の夕方、クラスの有志20名と共に、札幌一の繁華街で有名な狸小路の 料亭で、卒業祝賀パーティーとお別れ会を行いました。 料理は日本食だったと思います。宴もたけなわの頃に、私は階段を上がった所にある2階のトイレで小用を足しました。 が、トイレの板壁の中からパチパチという音が聞こえ、かすかに、煙が出ているではありませんか。隙間から、炎らしきものも。 「大変だ。火事だ。」ということで、慌てて階段を下りてクラスの皆に「オイッ。火事だ。逃げろ。」と知らせ、次いで、 5、6人が忙しそうに料理を作っている最中の厨房に行き、「火事です! 壁が燃えていますよ。」と連絡しました。 それは皆慌てていましたよ。私が第一発見者だったのです。 皆無事に外に出て、火事見物です。消防車が何台も来て消火に当たりましたが、火の勢いが強くて5、6軒に延焼し、 2時間以上も燃え続けました。翌朝の新聞には、この大火事の記事が1面全体を埋め尽くしていました。 そういえば、宴会の料金は払っていないなあ。 return |
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11. ピシッという音
私が前触れがなく突如として気分が爽快になった瞬間、 建屋の柱、または、天井、時には外壁がピシッと鳴るのを若いときから現在まで経験してきました。 取り立てて言うほどのことではないのですが、不思議なことに、気分の切り替わりに高い確率に起こるのです。 これは自宅に限らず、どの家屋でも、木造でも、鉄筋コンクリート造りでも、旅先のホテルでも、昼夜を問わず起こります。 私の気分次第のところがありますので、数日何も起きないこともあれば、1日に数回起きることもあり、予測は全くできません。突然です。 同じ気分の切り替わりでも、気分が悪化する場合は全く起こらないのです。必ず、無意識のうちに爽快な気分に切り替わる瞬間だけ ビシッという音がするのです。その音で、得も知れない満足感がやって来るわけです。 私の緊張感の開放が、建屋に懸かっている何らかの歪の力の解放を呼び起こすような感覚なのです。 このとき、今まで静かだった周りの小鳥たちが楽しそうにさえずり始めるのです。 偶然ではなく、いつもこの現象が大なり小なり起きるのです。 これは、周りの空気がさわやかに明るくなったのだと思われます。 社会のムードもこのような伝播なのではないでしょうか。 気温や湿度や、はたまた、風や気圧の気象条件の変化によって、柱や天井などが乾くなどして小さな歪みが生じるために起きるのではないか、 その気象変化が感情の変化をも引き起こすために、それらが同時現象として現れるのではないかな、と解釈をしています。 だけれども、やはり不思議に感じます。私の感情の切り替わりのエネルギーが音を発しているのではないかと。?? 皆様はどう思われます? return |
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12. こおろぎ
現在、私の寝室の縁先に秋になると毎夜1匹のこおろぎが切ない声で鳴いています。20数年前から毎秋、同じ鳴き声で同じ場所に1匹だけ鳴いています。 何代目のこおろぎかな、とその度に考えるのですが、鳴く特徴が同じなので、ひょっとして、このこおろぎは越冬して何年も生きているのではないか?、と疑ってもいます。 母の母、すなわち、新潟県東頸城郡浦川原村真光寺 (現・上越市浦川原区真光寺)から嫁いで来られた祖母の福田ツイさんは、1947年2月に92歳 ? で、 新潟県中頸城郡大瀁村大字市村新田(現・上越市頚城区市村) で亡くなっていますが、この亡くなる直前に屋敷の縁の下からこおろぎの鳴き声が聞こえ始めたそうです。 これは母の実体験の話です。 居合わせた沢山の親戚が「2月の未だ雪深いこの季節に珍しいもんだ。こおろぎがあの世へ呼んでいるんではなかろうか。」と話し合い、 こおろぎを探しましたが、どうしても見付からなかったそうです。そのうち、お祖母さんは老衰と肺炎で静かに息を引き取られました。 その後、こおろぎが鳴くことはなかったそうです。 return |
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13. 「おーい」と呼ぶ声
誰もいるはずのない場所で、遠くから「おーい」と呼ぶ声を聞いたのは、今までに3度ありました。 1964年12月6日(日)の夕暮れ、仙台西北部の吉成から西2キロの山中の無人地帯を自転車で走っているうちに、道がいつの間にか消えてしまい、 山中をさ迷うこと1時間、脱出するのに心底青くなったことがあります。5万分の一の地形図は持っています。半径2キロ以内には人が住んでいません。 元来た道を自転車を押しながら必死に探しますが、周りは雑木林の似たような地形が続き、浅い谷と低い尾根が入り組んでいるので焦ります。 見晴らしのいい所で小休止します。何の音も聞こえずシーンとしています。すると、はるか北方の樹海から「おーい。」と誰かが呼ぶ声が聞こえます。 それが10秒から20秒間隔で呼んでいます。怖くはないのですが、樹海のどこかに行き倒れた人がいて、白骨化しているのでなかろうか、そして、 その何かが呼んでいるのではなかろうか、と勝手に想像します。一息入れて冷静に行動するうち、何とか元の道に戻ることができました。 1965年5月5日(水)(ゴールデンウィークの最終日)の曇天の寒い日に、宮城県柴田郡川崎町と山形県の境界にある 笹谷峠と有耶無耶の関に向けて、1人サイクリングに出掛けました。 仙台から砂利道を延々と3時間かけて笹谷部落に着きました。 ここが最後の人家です。部落を過ぎる頃から残雪が現れます。 峠道を上るにつれ、大量の積雪のため自転車を捨てて徒歩に切り替えました。 気温が2度から5度くらいでザラメ状の雪は締まっていて、長靴での歩行は楽です。 濃霧の中ではありますが、峠まで登れそうに思えたのです。しかし、やがて30度から45度以上の急傾斜になってきました。 「どうしようか」と思いあぐんで小休憩。 何の音もありません。そのうち、行く手のはるか南西斜面から「おーい。」と誰かが呼んでいるような声が聞こえます。10秒から20秒間隔で呼んでいます。 怖くはないのですが、かつて遭難した人がいて、その何かが呼んでいるのではなかろうか、と勝手に想像します。 「これ以上、進むのは危険だ。」と判断して、戻りました。
「おーい」という声は、危険回避の防衛本能が無意識のうちに働いた自作自演の結果と思っています。 東北地方は人の疎らな所が多いので、人恋しさが関東以南より強く働きます。 return |
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1965年5月21日(金) 天候は、南のち西の風、曇時々晴、15時に激しい雷雨、のち晴、気温、15度から20度の間 |
私が大学院時代の1960年代後半、専門のプラズマ物理学の他に、個人的に素粒子物理学を勉強していました。 当時は名古屋大学理学部の坂田昌一教授 が提唱した坂田モデル(世界の主要な研究施設で、実験的に素粒子が限りなく新発見されて、 陽子、中性子や各種の中間子が素粒子としての資格が問われた時代です) が国内外の理論物理学で注目されていて、 名古屋大学や京都大学の理学部の研究者たちによって、 坂田模型 を中心に活発な理論研究活動が続けられていました。その直後、アメリカの ゲルマン によってクォークモデルが提唱されました。おそらく、彼は坂田モデルを模倣したものと思います。 まもなく、彼はノーベル物理学賞を受賞していますが、未だ、クォーク粒子は3種でした。 1974年に私が高専に赴任した後、専門が電子および電気工学、制御工学に軸足を移した後は、素粒子物理学とは全く縁を切っていました。 2000年から2003年のある年の春、高専教員の歓送迎会の席が、筑波の高エネルギー物理研究所から移籍していた四王天正臣教授 [註6] と同じテーブルでしたので、 先生に、「今、チャームなどのクォーク粒子はどうなっているのでしょうね。」と尋ねてみました。 先生は、「トップクォークが1995年に実験的に証明されて、6種のクォーク粒子がそろった。」という。 私は、クォーク模型が完成域に達したことを認識したのでした。 2008年度ノーベル物理学賞が 南部陽一郎氏、小林誠氏、益川敏英氏の三名に受賞 されましたが、対象となった研究論文が1970年代かそれ以前なのに、 なぜ受賞が遅れたかというと、「粒子・反粒子における自発的対称性の破れ」が実験的に検証されたのが2002年と遅かったためという。 この2002年が、上述に述べた話題とした年とほぼ一致しているということは、私が無意識のうちに、何かを感じていたのでしょう。 なお、2002年のノーベル物理学賞に、東京大学名誉教授の小柴昌俊教授が、 超新星爆発から放射したニュートリノをカミオカンデ装置で検出した、という功績で受賞されています。 [註6] 四王天先生のご先祖は、鎌倉幕府の重臣だそうです。 お名前の起源も何か「ゆかり」がおありとか。 2012年7月4日(水)に CERN(ヨーロッパ合同原子核研究機構)から「ヒッグス粒子とみられる新粒子が発見された」と発表されました。 CERN で研究された世界中の多くの研究者による膨大な研究データから最近得られた結論のようです。 ヒッグス粒子は1964年にイギリスのピーター・ヒッグス博士が理論的に予言した「素粒子に質量を与える素粒子」で、 この発見により、現在の素粒子物理学の基盤となっている「標準モデル」の素粒子 17 種がすべて発見されたことになります。 なお、クォーク粒子 6 種もこの 17 種の内に入っています。 残された問題は、光や物質よりもはるかに多く銀河や銀河団に充満しているとされるダークマター(暗黒物質)、および、 「標準モデル」に組み入れていない重力子、および、宇宙の加速膨張の要因として存在が予測されているダークエネルギーがあります。 (以上、科学雑誌「Newton 2012/9」を参考にしました。2012年8月23日(木)記) [参考] 茨城県東海村にある(独立行政法人)日本原子力機構原子力科学研究所(旧称 日本原子力研究所東海研究所)にアメリカの援助で我国初の原子炉(実験用原子炉)JRR-1 が設置され、 1957年に臨界に達しました。この原子炉は現在コンクリートで固められて、下の画像のように見学用に公開されています。 return |
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(旧称 日本原子力研究所東海研究所)にて 2007年7月27日(月)撮影 |
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15. 教授の怒り
東北大学工学部電子工学科5期生である私達のクラス54人が4年になって間もない1965年5月に、卒業後の進路希望の調査がありました。 当時の大学院進学は学部の3分の一の狭き門でした。 ある日、私達クラス一同が講義室に集められ、固体電子工学の権威であった 和田正信教授 (その2) が滾々と説教です。 「君達はおかしい。狂っている。君達は何を考えているんだ。考え直せ。」と怒り心頭なのです。 今年に限って、私を含め大学院進学希望者が大部分だというのです。 これには、和田先生を始め就職担当の先生方は私達の進路指導のスタート点でパニックになってしまったようです。 曰く、「今年の君達の成績が余りにも良すぎるのだ。君達は少しおかしいのではないか? 例年ならば、確かに君達はすべて、大学院に進学できる成績を取っている。だからと言って、就職よりも大学院を選ぶ君たちがおかしい。 大学院進学の定員が限られている。研究は就職しても十分出来る余地がある。考え直して見給え。」ということで、その後、学生全員が毎日、 一人ひとり教授室に呼ばれて、就職相談や就職への進路切り替えの説得が続きました。前年度は逆に成績が振るわず、逆の意味で大変だったようです。 教授室に呼ばれた私の場合、和田先生と菊地先生が大きな紙の成績表を見ながら、 和田先生が「君を松下電器か東芝か日立を推薦してあげようと思うが、どうかね。」 と切り出し、私が、「大学院で是非研究活動をして世の役に立てたいと思います。」と言うと、先生方は改めて成績表を見て、 「ウーン。確かに君が希望する理由は分かる。だが、松下ならば特段で推薦してあげるよ。」と仰るのを私が再度進学希望を述べると、 先生方は直ぐに就職への説得を諦めました。 最終的に、進学希望者は18人に絞られ、9月に実施された大学院入学試験にはその全員が合格し、外部からの合格者1名を加えて、 大学院工学研究科電子工学専攻には19名が進学することになりました。 ちなみに、試験科目は、英語、ドイツ語、電気磁気学、電気回路学、電子回路学だったように記憶しています。そのレベルはやや難しい程度のものでした。 この優秀なクラスから、フラッシュメモリの発明者である舛岡富士雄氏(東北大学名誉教授)が輩出しています。 詳しくはこちら
現在、大学生の学力低下が嘆かれています。上述の再現が望まれる所です。
[後日談] 大学院希望の学生は、受験の準備を考慮して4年時の工場実習が免除されますが、 何か後ろめたく感じましたので、私1人だけ1965年7月12日(月)から31日(土)の20日間、 千葉県茂原市にある㈱日立製作所・茂原工場(現 ㈱日立ディスプレイデバイシズ)に実習に行きました。 この工場には、東大、京大、中央大生とともに4人参加でした。 私は大パワーセラミック送信管の電極最適配置の設計を、その当時では珍しかったテーブル型の計算機を駆使して行い、 1ヶ月で工場にその研究論文を提出しました。 ただ、ドイツ製の最新型送信管用の真空装置を実験中、うっかり破損させてしまい、茂原工場さんに平謝りに謝りました。 岩柳課長さん(後に分社化の社長さん)や係長さんには大変ご迷惑をお掛けしました。 申し訳けございませんでした。 私は5月からほゞ毎晩、下宿で電気磁気学は問題集を中心に復習し、ドイツ語は豆独和辞典3千語を丸暗記して、 9月に入試に臨みました。 合格してからしばらくして、周囲の人たちから「山本君の大学院入試試験がトップ成績だってな。」と言われるようになり、私は「ええっ?」と言うのみ。 それは本当なのか、本当だとすれば、どこから漏れてきたのか。知らぬは本人だけかも。 今もって真偽の程は分かりません。 大学院修士課程に進学後、私の研究用実験装置を製作するために、電気系工学科付属機械工場に時々 出掛けていました。 その度に、上田幸作工場長はじめ数人の工場職員が「江戸一番という言葉があるが、・・・・・」 というように大声で楽しそうに話し合っているのです。 私は旋盤やボール盤で作業していますので、何の話題かは分かりませんが、 私は「僕のことを噂しているのでは。」と勝手に、また、自分に都合がよいように 解釈して、ほくそ笑んでいました。ハハハ。 なお、上記、茂原工場の実習を終えた2日後に、源頼朝が隠れていたという仁右衛門島を訪れました。それが次の写真です。
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16. 音楽の先生の怒り
1953年(昭和28年)5月に、日本石油㈱に勤めていた父 (こちら ) の転勤で、
兵庫県尼崎市から仙台市半小町に引っ越して来て、
仙台市立八幡小学校5年7組に編入しました。たまたま、
隣家の伊藤さんの旦那さんが仙台市教育委員会、奥様が市内の小学校の先生で、
その長女の方(千恵子ちゃん)が東北大学教育学部附属小学校3年生でした。その家の人と懇意になり、
「附属小学校で各学年ごとに編入試験がありますよ。」と私の両親に教えて頂いたらしいのです。
たまたま、附属小学校も家から比較的に近くにありましたので、挑戦の積りということもあり、
受験したわけです。6年編入は私を含めて5人の受験者がありましたが、私だけ合格し6年1組に編入しました。
1955年3月に無事そこを卒業し、北七番丁にある附属中学校に入学したわけです。1年4組です。
入学後の最初の音楽の授業。中年男性の 和久井昇先生 (その2、 その3) がやや遅れて教室に入ってきて出席を取り始めました。 音楽の授業ということと、先生が来られるまで間があったことから、私たちに緊張感がなく、ざわついていました。 私も隣の上山訓史君とお喋りです。 それでも、先生は出席を取り続けていましたが、全部取り終わらないうちに、突然、 先生は教壇の椅子を窓際の壁にドカーンと投げつけ、 「うるさいっ!! 黙れっ!!」。教室はシーン。それからその時間いっぱいに先生は怒鳴りながら、 滾々と説教です。 次の週の音楽の時間は音楽室です。緊張のあまりシーンとして先生を待ちます。やがて先生が教室に入って何事もなかったかのように出席を取り、 「さあ。教科書の〇〇ページの”夏は来ぬ”を歌いましょう。」と言ってピアノを弾き始めます。 「卯の花ーの匂う垣根に、 ホトトギス早も来鳴きて、・・・」と斉唱します。 私の親友であった阿部浩佳君(後に丸紅㈱部長)ら歌の非常に上手な小学校6年の同級生数名がこのクラスにいて、 また、私も音感がしっかりしていると自負していましたので、 これらがうまく調和したのか、「皆よく歌えてるなあ。」と自分でも納得の斉唱でした。 歌い終わると、先生が間髪を入れず、「非常にいい! いいねえ。素晴らしい。 初めて歌うのに、こんなに上手なのは初めてだ。」と感心頻りです。 「よし。もう一回歌いましょう。」とピアノを弾き始めます。歌い終わると、「ウーン。いいねえ。素晴らしい。よし。もう一度歌いましょう。」と、 この音楽の時間、繰り返して歌い、その度に先生は感心しています。 先生のお顔はご満悦のようで、感動さえしているようです。お世辞ではないようです。 5月に、また父の転勤で北海道札幌郡手稲町に引っ越しましたので、その後の様子は分かりません。 2年後(1957年[昭和32年])の中学校3年の年、 札幌でNHKラジオを何気なく聴いていると、 「NHK全国音楽コンクール・中学校合唱の部、第3位、東北大学教育学部附属中学校。」 (その2)というのです。 あのときの和久井先生が頑張られて、ここまで指導されたのだなあ、と思いました。 それに、そのときの私の同級生はは阿部浩佳君や中嶋昭子さん(旧姓 稲沢さん)をはじめ、歌の上手な人たちばかりでした。 なお、先生の息子さんの和久井康明君は附属小・中学校ともに、クラスは違いますが、私の同級生で、 和久井君は後に、東大経済学部を卒業して、 現在、㈱クラレの社長を経て㈱クラレの会長に納まっています。 return |
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17. C型肝炎ウィルスに感染???
肝炎ウィルスにはA型、B型、C型があり、A型は経口から、B型とC型は血液接触感染で体内に入り肝臓を犯します。 A型は劇症になりやすい反面、適切な処置で完治されますが、B型とC型は劇症になる場合と慢性化する場合に分かれ、 劇症になった場合は短期間で生命を危くしますが、多くは慢性化し、適切な処置で病気の進行を抑えることが現代では可能となっています。 しかし、慢性の場合で適切な処置を怠ると最終的には肝硬変から肝癌に至る危険性が大となります。 特にC型の場合、一度ウィルスが体内に入るとウィルスを完全に駆遂(駆除)することが極めて困難とされています。 この困難さはエイズウィルスと同様です。日本人はC型肝炎ウィルスの感染者数が非常に多いといわれ、 1964年当時のアメリカの著名な駐日大使であったライシャワー氏が暴漢に太ももを刺されて輸血を受けたことが原因で慢性のC型肝炎になり、 それが悪化して1990年に亡くなられたことは記憶にそう古くはありません。 なお、C型肝炎ウィルスは1989年にやっとその存在が確認され、それまでは非A非B型とも呼ばれていました。 前置きが長くなりましたが、小学校高学年のとき私は将来医者になろうかな、と思ったことがあり、それ以来、医学の知識が自然に身についていたものですから。 その希望を父に話しましたら、父は「臆病者のお前なんか、血を見ただけで逃げ出してしまう。医者になんかなれるもんか。」 と一蹴され、「それもそうだな」、と思って諦めたことがあります。 さて。本題です。日記から書き出してみます。 2007年8月10日(金)快晴、猛暑 9時12分の電車で赤塚駅(水戸駅の西隣)に着く。水府病院(国家公務員共済組合連合会)で胃の内視鏡検査を11時半から受ける。画面上の目視では大丈夫のよう。 詳しい検査結果は2週間後。 2007年8月24日(金)快晴、やや暑い 10時に水府病院に向かう。内視鏡検査の検診結果を聞きに行くため。12時近くに内科部長の茂木秀人先生の診断を受けたところ、 先生は「内視鏡検査よりも血液検査の方が大変だ。」という。「内視鏡検査は軽い胃炎がある程度で問題ないのですが。 問題は、血液検査でC型肝炎の抗体が微妙にプラスと出ているのですよ。 去年の人間ドックまでは抗体反応はマイナスなのにねえ。」と言う。 先生も首を傾げて、「最近、何か (例えば、刺青、私的な注射、感染者との血液的な接触など)あったのですか。」 と問う。私は「全く思い当たる節はありませんが。」と私も首を傾げます。そのあと、検査用にかなりの量を採血し、 1週間後にまた来るように言われた。具体的には、HCV-Ab の数値が陰性の場合は 1.00 未満なのですが、今回の私の数値が 1.02 とのこと。 2007年8月31日(金)曇、涼しい 10時過ぎに水府病院に向かい11時に着く。12時過ぎから前回の血液検査の結果について、 先生は「今回もC型肝炎ウイルスの抗体反応は微妙にプラスと出ましたが、 ウイルスは見つからなかった。」と言い、 私との話し合いでも原因が分からず、先生も首を傾げていた。 それで、3,4ヵ月後にまた検査に来て下さい、とのこと。ひょっとして、退職後に要請された研究活動先で、次の日誌に記録した事と関係しているのかな、と思いました。 それとも、C型肝炎ウィルスとは関係なく、他の何らかの原因で抗体反応が出てしまったのではないか、と勝手に解釈もしています。 それは、 2007年6月21日(木)晴後薄曇後本曇、夕方、雨ぱらつく、かなり汗をかく。夜一時雨 9時50分にE工房にお手伝いに来る。...早速実験に入る。...13時に「つくば国際短期大学」のK先生がお帰りになる。... 僕はプレパラートを洗浄する等の跡片付け。 このとき、顕微鏡用の極く薄いガラス製プレパラートが砕けて右手の 人差し指の先を切ってしまい、血が水道水と共に流れ落ちた。大変だ。 もし、何らかの細菌やウィルスでも入ったら大変、と咄嗟に戦慄が走り、 傷口から血を搾り出して丁寧に水道水と石鹸で洗った。14時に帰宅。 私の場合、抗体は微妙ではあるけれども検出された ? のですが、ウィルスは見付かっていないので、少しホッとしました。 さらに、あるサイトで、「C型肝炎ウィルス感染後でもウィルスが完全に消えて完治することがある」と書かれていますので、かなり安心感が増しました。 多分、ウィルスは本当にいないだろう、と。体調もよいので、3ヶ月後の検査に行くのも忘れてしまったのです。 一応、念のため、2年近く経ってから検査に行きました。それを日記から書き出してみます。 2009年5月11日(月)晴、やや涼しくなる。夜は冷える 水府病院に10時に来る。待たないで採血され、1時間経ってから茂木先生の診察を受けた。 肝機能は全く正常とのこと。詳しい結果は10日以降に分かるとのこと。 2009年5月25日(月)未明に俄雨、雷鳴あり、昼間は快晴 10時に赤塚駅傍の水府病院に来る。すぐ呼ばれ、茂木先生が 「C型肝炎の抗体が消えていますね。 ウィルスもいないし。 大丈夫でしょう。 一過性だったのかな。」 ということで無罪放免となりました。
上述とは関係ないですが、医療関係で普段私が思っていることを述べたいと思います。 例えば、心臓移植などの臓器移植、この国は何をやっているんだ、ということです。10年以上前に、私も臓器移植に登録しようと思ったのですが、 この国の考え方や手続きの複雑さとバカらしさに、やる気は失せてしまいました。 ヨーロッパでは、臓器移植が無料でできる国もあれば、有料でも70万円程度と聞いたことがあります。 それは、臓器移植しなければならない人は、その人の責任ではなく不運な人なので、これは社会がカバーしなければならないから、という理念のようです。 日本人がアメリカやヨーロッパに心臓移植に来ると1億円ボラれるのです。そして向こうの人が皮肉たっぷりに言うのです。 「いったい、日本には人間が何人いるんだい?」と。恥ずかしい話です。 10年前ですら人口6千万人のイギリスで臓器移植登録者数は1千万人近くということです。我が国も何とかしなければ。医療技術は優れているのだから。 ちなみに、私の大学の研究室の後輩である 小田島和男氏 (その2、 その3) (前 日本原子力研究開発機構・那珂研究所、東北大学大学院工学研究科博士課程、 八田研究室出身で、新潟県三条高校時代に剣道部で県大会団体準優勝の由)がイギリス赴任のときに、 現地の医療費は外人でも無料だった由で、彼はイギリスに大変感激したそうです。 2009年7月13日に、 脳死を一律に「人の死」と位置付け、臓器提供の年齢制限を撤廃する改正臓器移植法(A案)が参議院本会議で可決、成立 しました。 大変遅れていた我が国の臓器移植がこれにより、臓器移植を必要としている多くの人を救えるという観点で、 やっと本格的な実施に漕ぎつけることとなりました。 よかった、よかった。 4年間の空白期間(病院に行かなかった)の後、2011年7月1日(金)に久しぶりに水府病院で人間ドックを受ける機会があり、 その血清検査結果を過去2回の人間ドックの結果と合わせて次の画像に示します。 ピンクの枠で囲ったところがC型肝炎ウイルスの抗体反応の検査結果です。陰性でした。完全に安心です。 return |
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18. 札幌市内でホワイトアウト(猛吹雪)
風速25メートル、気温・氷点下10度。前を向くと、全てが凍りつく強風と濃密で細かな雪の粉が肺にまで達するので、 ウッと呻くように息が止まり、頭がクラッときて意識がなくなりそうです。 とても前を向いては歩けません。体を丸くして後ろ向きに歩くも、何処を歩いているのかが分からないため、 また前を向き直しますが、呼吸が止まってしまい、結局、前には進めません。無理に前に進もうと歩いても、 道の端っこが分からないために、 体ごと、以前に除雪されて山のように積み重なっている道路端の雪の山に突っ込んでしまいます。 要するに、見えない、息が出来ない、猛烈に寒い、吹き飛ばされそう、ということで、 2人とも風雪を避けるように後ろ向きに体を丸くして立ちすくむしかありません、このままでは遭難してしまう。市電通りだというのに。 「オイ、そこの民家に避難しよう。」と2人で話して合っていました。本当に恐かったですよ。 そのうち、さしもの猛吹雪が収まって、普通の風雪(吹雪)がそれに続きました。 あちこちで1メートルもの吹き溜まりが出来ている中、無事、学校に辿り着きました。 私は札幌郡手稲町(現 札幌市手稲区)に2年、当時の札幌市内に5年、計7年いましたが、このような猛烈な吹雪は1回のみです。 普通の吹雪はしょっちゅうありますが。 北アルプスを始め、山岳登山での猛吹雪による遭難は毎年後を絶ちません。 上記の札幌市街地でさえも血気盛んな年代の私達が遭難しかけた位ですから、どんなに登山技術が優れていても、 万に1つは、必ず冬山で大変なことになるのは目に見えています。特に、本州の都会育ちの方々は、猛吹雪の本当の恐ろしさを知っているとは思われません。 札幌と違って、山岳地帯は猛吹雪が2,3日続きますので、比較にならない位に危険です。 冬山登山をなさる方は覚悟して臨まれることを心に留めるべきです。 [註7] 加藤綜和氏は天才肌の非常に優秀な方で、今でいう 北海道学力コンクール の高校入試の模擬テストに全道(北海道全域)トップの成績を収めていました。 中学校の頃に既にアインシュタインの特殊相対性理論をマスターしていました。札幌南高校から東京工業大学工学部応用化学科に進学され、 卒業後は日本石油㈱[現 JX日鉱日石エネルギー、通称、ENEOS] 中央研究所および日本石油精製㈱にお勤めされていました。今は定年退職されたと思います。
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19. ジェーン台風
午前9時頃から南東から南風がざわざわと吹き出して、やがて大粒の雨も降ってきました。「あっ。来始めたな。」 全ての雨戸を閉め直します。 次第に風と雨が強くなり、雨は横殴りに。 私は2階の階段を上った所にある踊り場の小さな窓から外を眺めています。 ここは、風下側なので安心です。外はゴーゴー、ヒューヒューという風の音とザーザーという雨の音、内はギシギシという家のきしむ音が止みません。 そのうち、南風の直撃を受け続けている2階の木製の雨戸が、風圧で、目で見ても室内側に弓なりに曲がっているのです。 瞬間的にはドーンと大きな音を立てて、暴風が雨戸に激しくぶつかります。すると、震度3くらいの地震が来たように家全体が揺れ、 柱という柱はギーギーときしみます。雨戸は5センチーほど内側に湾曲して耐えています。恐ろしい!! 父の顔は見る見る青くなり、「雨戸が吹き飛んだら屋根も吹き飛ぶ。大変だ。みんな手伝え。」ということで、 箪笥をはじめあらゆる家具、さらに、畳まではがして、 雨戸が外れないようにします。2階の小窓から外を見ると、猛烈な雨は下から降って来るような横殴りで、 屋根すれすれに見える真っ黒い乱雲が猛スピードで南から北に流れています。木切れ、屋根瓦などがたくさん空中を飛んでいます。 一歩も外には出られません。もし外に出ると、人間でも風に吹き飛ばされるし、暴風で舞っている瓦礫に当って大変なことになるでしょうから。 武庫川の堤防を見ると、直径50センチ以上、高さ10メートル以上の黒松がスローモーションのように90度まで曲げられ、また元に戻るというような動きを、 10秒位の周期で繰り返し、台風の威力ってすごいなあ、と妙な感動を覚えます。ついに停電、断水。電線が切れたのでしょう。 それまでも豪雨で暗かったのですが、12時頃にさらに急に夜のように真っ暗になり、風雨が猛烈になりました。 風が家にぶつかるド、ド、ド、ドーンという爆弾のような音、グラグラ、ギーギーという地震のような揺れ。 小窓から外を見ると、真っ暗な中あらゆる瓦礫が飛び交い、 ゴーゴー、ヒューヒュー、ガラガラ、ドーン、ドーン、雨がドーッ、ドーッと地獄のようです。 父母は真っ暗な部屋の中に座って、互いに、「一体、どうなるのだろう。」と話し合って怯えています。 恐らく、台風の目のすぐ傍にいるに違いありません。 後で聞いた話では、武庫川の向こう側(西側)の西宮市は午後、台風の目の中に入って、風がぴたりと止み、青空となったそうです。 この地獄絵が1時間から1時間半続いたのですよ。14時からは猛烈な風雨がややが弱まり、少し明るさを戻しましたが、それでも、 ものすごい風雨が16時ごろまで続きました。要するに、朝から晩まで吹きっぱなし、降りっぱなし、ということです。 風もかなり収まった17時頃、2階の小窓から見て、すぐ近くのどぶ川が逆流しているのに気付きました。 「アレッ、川が逆さに流れているよ。」 そのとき、「高潮だーッ。高潮が来たぞーッ。高潮だーッ。」と繰り返し叫ぶ男の声が聞こえました。 みると、どぶ川の水が道路に溢れ出し、見る見る一帯が水浸しに。 この頃には曇り空ではありますが、風雨は収まり、時々思い出したように強めの風が吹く程度です。日暮れてきました。 遂に、15センチの床下浸水となりました。海岸から6キロも離れているのに海水が押し寄せてきたのです。 幸い、それ以上には水かさは増しません。やがて、浜の方からボートがやって来て、 「海岸地帯はひどい状況だ。すべての家は2階まで浸水している。炊き出しをお願いしたい。」 と近所に触れ回っています。 断水ですが、すぐ近くに井戸水の手押しポンプがありますので、近所の奥様たちはそれで水を確保し、また、ガスは止まりました? が、 まだその時分には薪で炊く竈とお釜を使っていましたので、これでご飯を炊き、 そしてオニギリを握って、ボートの人に渡したのです。 幸い、私の家近くは夜半までに水が引きました。停電はしばらく続いたと思います。何しろ、 吹きさらしの土地にある電柱という電柱は全て根こそぎ倒れたのですから。 このときの高潮はは大阪市内はじめ阪神地方に大きな爪あとを残し、完全に水が引くまで1ヶ月もかかりました。 交通機関も復旧するのにかなり日数を要したようです。また、私の学校も浸水で通えない児童も多く、しばらくはまともな授業が出来なかったように思います。 校庭から南を見ると、何日も海水に浸かったままの田んぼが見られました。
なお、父母の知人で海岸近くに住んでおられた高橋さんは、命からがら避難したそうで、その後、 高橋電気商会を大阪市内に創設し、 商売が繁盛している由です。 この高潮の教訓からか、阪神地方の海岸線は背の高い防潮堤が築かれ、 あの美しかった松林と砂浜の浜甲子園海水浴場や芦屋海岸などは、記憶か写真にしか残らない遠い昔の風景となりました。 台風の恐ろしさをこの目で見てきた私としては、最近テレビ等でアナウンサが風雨の中を報道していますが、 これは危険極まりない、と思っています。 また、台風の中、自動車を運転しているのを見ると、台風の目の近くの恐ろしさに対して無知なのではないか、と訝っています。 私が出会ったジェーン台風の暴風ならば、自動車もひっくり返ると思われますので。 強い台風にはくれぐれも侮ることなかれ。 [余話] 右図の写真は、私が東北大学大学院在学当時に父母が再び兵庫県尼崎市に住んでいた 日本石油㈱本田社宅の住いからの写真ですが、 私が小学校に在学中の1950年代に最初にこの本田社宅にいた頃、右図の家の堤防側に向かった隣の棟に、 私たち餓鬼仲間と時々遊んで下さった「稔ちゃん」、 または、「稔お兄さん」が住んでいました。後に1970年代に社交ダンス日本一 に輝き、大阪で社交ダンスの先生をなさっていた野田稔氏です。 その直後に、稔氏のお母様が私の母に話をされ、母が私に教えてくれたものです。 何しろ、かなり昔の話なので、この関係のサイトが殆んどなく、唯一、 佐々木ダンス教授所のプロフィールのページに書かれています。 私たち遊び仲間としては一寸懐かしい。稔お兄さんは小学校の頃も機敏で活発でハンサムなお兄さんでした。 当時流行ったベーゴマはとても上手でした。 [余話2] 1950年代のこの本田社宅には、私が記憶している限りでは、上記の野田さんのほかに、 糸山さん(宗行ちゃんが私の同級生。また、シェパードのパール[真珠の意]という名犬もいた。 1951年に東京に転勤)、 真杉さん(さっちゃんというと年下の女の子がいた。1950年に名古屋に転勤)、 お隣の安達さん(親友であった貞雄ちゃんが1年上のお兄さん)、 平田さん、菅沼さん(正明ちゃんというと年下の男の子がいた。1952年に小樽に転勤)、 小山さん(足の速い1年下の男の子がいた。1950年に鳥取に転勤)、 馬場さん (奥様は若林さんで同級の1人っ子の男の子に連れられて、夏休みの1ヶ月間だけ、甲子園のピアノの先生にピアノを習ったことがあります)、 長尾さん、江本さん(利夫ちゃんが私の同級生で、あの有名な灘高校出身)、 寝屋さん、 会社の寮の叔母さんの山本さん(一緒に遊んでくださった山本お兄さんがいて、 後に所属して活躍した関西大学グリークラブ [ コーラス(合唱)グループのこと ] が、何らかのグランプリを獲得したとか ) が住まわれていました。 [補記] 関東大震災後、東京大学に地震研究所が設立されたように、 このジェーン台風の被害が甚大であったことから京都大学に防災研究所が設立されています。 なお、2011年3月11日の東日本大震災では、1年後の2012年4月に東北大学に防災科学国際研究所が開設されています。 [以上、青葉工業会報(東北大学工学部同窓会報)No.56 (2012年12月)の1ページ掲載の青葉工業会会長・工学研究科長の金井 浩教授による巻頭言を参考にしました。] return |
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20. 平成10年台風第7号
1990年代の10年間に、勢力が歴代3位の 平成5年台風第13号をはじめ、 幾つかの強力な台風が次々と襲ってきた特異な10年間でした。地球温暖化の影響が取り沙汰されていました。 そのうちの1つ、1998年9月22日(火)に 平成10年台風第7号 が紀伊半島に上陸し、紀伊半島をはじめ、日本各地に多くの災害をもたらし、 奈良県宇多郡室生村(現 宇多市室生)にある室生寺 (別称 女人高野)の五重塔(国宝)が倒れてきた杉の木により大被害を被ったことで知られています。 このとき、同じ室生村西谷(現 宇多市室生区西谷)にある父母名義の山林の杉と檜:計200本以上横倒しになりました。 地元の森林組合の杉中成夫氏から私に電話連絡があり、 「村の共同テレビアンテナのケーブルが、貴方とこの杉林が倒れたもんで、壊れて使えないんや。 それで、ウチが貴方に代わって倒れた杉林を伐採してよろしいですか。」と仰るので、倒木の処理をすべて杉中氏にお任せしました。 そこで、杉中氏が撮った状況写真が下の画像です。 その半月後に倒木すべてを伐採処分して、翌年に全面的に植林し直して下さいました。 氏の対応に感謝しています。 |
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奈良県宇陀郡室生村西谷(現 宇多市室生区西谷) 杉中成夫氏が撮影 |
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21. 首都高のランプでガス欠
1980年頃(30歳代後半)の天気のよいある日曜日の午前、何かの用事で中央自動車道から首都高速4号新宿線に入り茨城県勝田市(現 ひたちなか市) への帰途についていました。当時は未だ、常磐道も外環道もなく、 首都高6号線の東端は東向島までしか開通していません。その先は国道6号線(水戸街道)となります。 乗っている車は30万円で買って間もない中古のグランドファミリア(マツダ車 マニュアル3速の排気量1190cc)です。 通行量が多いですが渋滞もなくスムーズに走り、やがて新宿インターチェンジ付近の右カーブに差し掛かりますが、 何を思ったのか、私は思わずハンドルを左に切って、新宿副都心に出る新宿出口へのランプに入ってしまったのです。 「しまった。真っ直ぐそのまま進むはずだったのに。」。と、その直後、車の馬力がスーッとなくなり、出口ランプの一番高いところのカーブで止まってしまったのですよ。 ガス欠です。次から次へと首都高からランプ出口に向かう車が猛スピードで、私の止まった車の脇をすり抜けていきます。 「困ったな。だけど、あのまま真っ直ぐに行かなくてよかった。もし、そのまま進んでいたら、僕のセイで首都高4号上り線が大渋滞になってエライことになっただろう。」 と最悪の事態は回避できたので少しホッとしました。ガス欠の警告ランプが付いていない時代です。 咄嗟にハンドルを左に切ったことが不思議でなりません。意識に登らない何かの予感か、または、第六感が 働いたとしか言いようがありません。 ハンドルを切った直後でもガス欠の兆候がなかったのですから。 ひっきりなしにすぐ脇を猛スピードで通り抜ける車に怯えながら車を降りて、 5メートル下にある料金場の職員に大声で呼びかけましたが、聞こえないようです。仕方ないので、小さなポリタンクを持って、ランプ出口への急坂を歩いて出て、 すぐ近くにあったガソリンスタンドでガソリンをポリタンクに入れてもらい、再び車まで歩いて戻り、給油して事なきを得ました。冷や汗ものでした。
よくまあ、東名高速を無事に抜けたものだなあ。また、ダウンした場所が修理工場だったのが不運の中にも憑いていたようです。 河三モーターズにはお世話になりました。有難うございます。 return |
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22. 北海道でヤマビルを見た!!
最近、全国のあちこちでヤマビルの被害が急増していると、テレビや新聞で報じられ、 農業を放棄せざるを得ないなどの深刻な事態も生じているそうです。 このテレビ報道を最初に見た途端、普段忘れていたあの出来事が鮮明に思い出されたのです。 それは次のことです。
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23. 私の目は青目 ?
そういえば、初めての海外旅行でロサンジェルス空港に降り立ったとき、奇妙にも非常に懐かしい気分になったのを覚えています。 アメリカの白人は目が大きく柔らかな眼差しで、女性はブスが全く居なくてどれもこれも美人であり、男性もすべて美男子だなあ、と。 また、黒人女性も魅力的で美人ぞろい、と思いました。 日本に戻ったとき、怒られるかもしれませんが、日本と日本人にはガッカリした記憶があります。 テレビで欧米や中近東・トルコや中央アジアを見るときも、何か懐かしい感情が出てきます。そこに住む住民の感情が日本人のそれ以上に分かる気がします。 遠い祖先の幻影を感じるように。 ちなみに、インドを含めてインドから西の地域や、中央アジアから西の人々は、歴史的な混血もありますが基本的に白色人種(コーカソイド)になります。 インド人もよく見ると青目、金髪も混じっているようで、パキスタンに入ると、ハリウッド女優並みの金髪青目の美人もかなりいるようです。 くだらない話ですみません。 return |
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24. 前触れの夢 ?
茨城高専の先生からのお便りが届く日の早朝に、偶然でしょうが、その先生が夢に現れていた、ということが 2 つ連続して起きました。 以下に、日記から書き出して見ます。(もし差し支えありますれば、ご連絡下さいませ。削除いたします。) 最近は年のせいで感性が鈍っていますが、こういうことが起きるということは、未だ私は若いのでしょうかね。 (1) 2011年11月5日(土)曇、弱い南風でやや暖かく、久しぶりに半そで 夢。高専で学生の定期試験が 10 分後に始まる。教官の僕は担当の 5 科目すべてに試験問題を未だ作っていない。 10 分が経って僕の担当「制御工学」の試験に入り、僕は教室の学生を前にして、 止む無く試験問題を黒板にチョークで書き始める。 僕が学生の頃、一部の先生は黒板に試験問題を書いていたことを思い出しながら。本来ならば、試験問題を印刷した試験用紙を学生に配布しなければならない。 チョークがうまく黒板に乗らず、よく書けない。僕は焦るが、何とか書き進める。 一方、(国立)一関工業高等専門学校校長の柴田尚志先生 (その2)は僕たちを見ておられる。という夢を見た。 ・・・(中略)・・・ 12時過ぎに、柴田尚志先生から僕の出版物に対するお礼と先生の著作 1 冊が届く。 朝に見た夢はこの前兆だったのか? (2) 2011年11月7日(月)晴、やや寒くなる 夢。高専の電気工学科3階の実験室で僕と 木村隼人先生が学生実験に関して、 ああしよう、こうしようと 協議する。、 特に、1 つのテーマを 2 週にわたって学生が実験するのであるが、効率よく指導して 1 週で終わらせようとか、いや、2 週は必要とか、の議論。 そして、木村隼人先生のクラスの 5 年生が 4 人が実験室に入ってきて、送受信機の実験テーマのテーブルにやって来た。 背の高い物怖じしない学生が 4 人がテーブルに立つと、 実験室の雰囲気がガラッと変わった。という夢を見た。 ・・・(中略)・・・ 細川正男先生に昨日の写真を添付したメールの返信をする。 12時過ぎに、木村隼人先生から、ご丁寧なご返事が届いた。 朝に見た夢はその前兆だったのか? return |
25. 東日本大震災(東北関東大震災)と福島第1原子力発電所大事故の放射能
私はかつて仙台市に住み、被災した東北各地にも足を運んでいました。現在住んでいる茨城でも大きな影響を受けました。 今回の大災害について、私が体験したこと、感じたことを、東北の遍歴をも含めて、 断片的に記したものです。 詳しくはこちら
(なお、この項の分量が大きくなりましたので上に指定したサイトに移動するものです) return |
26. あの光は何だろう。UFO ?
暗闇の向かい風の中、波打ち際まで砂浜を歩いて行き、寄せてくる波に手を入れて海水の感触を楽しみました。 そして、元の位置に戻り、体の向きを変えて、再び暗い海原を眺めます。 ふと、波打ち際から東の海上に推定500メートル位、 海の上50から100メートルの高さに橙色に輝く光の点があるのに気付きました。 「あれ?。さっきはあんな光があったっけ? 無かったよな。」と声にならない独り言を言います。 低く垂れ込めた雲の下にあるようです。「何だろう? あれは。」 背筋が凍りつくようです。 金星かな。いや、方向は反対だし、分厚い雲の下だよ、あれは。飛行機かヘリコプターの光かな? いや、ジッとしている。??? こちらを睨んでいるような。 当時は成田国際空港が開港して間もない頃で、空港反対派の抵抗が続いていた混乱期です。 漁船の光かな。いや、違う。漁船にしてはかなり高いところにある。それに、海は時化てるから漁船がいるはずがない。 おかしいなあ。何だろう? まさか UFO ではあるまいな。 あそこだけ雲が切れて星が姿を現わしたか? いや、雲が空いている気配はない。 一面に分厚く低く垂れ込めた墨のような雲だ。 瞬きは全くなく、どう見ても分厚い雲の下にあるように見える。 おかしいなあ。何だろう。 それまで自分1人しかいないと思っていたら、ふと周りを確かめてみると、 海の家のような建物の入り口の暗がりの段差に1組の若い男女がヒシと抱き合ったまま座っているではないか。 彼等からはあの光は横向きなので、あの光は見えないかも知れない。 声をかける気にはなれず、あの光が不気味なので、早々に車に乗り、あの光を背にして、 海岸特有の荒地と畑地の中を旭市に向かってひたすら車を走らせました。 車を走らせながら、時々、振り返って見ると、その光は次第に遠のいてゆきます。 もし、星の光ならば、遠のくことはありませんので、あの光は星の光ではないようです。 また、その光は動いているように見えませんので、飛行機の光ではなさそうです。一体何でしょうかね、あの不気味な光は。 運転しながらも心は引きつったままでした。 深夜に勝田市の家に戻りました。 やっぱり、飛行機(一般の航空機や航空自衛隊機)の前照灯、または、 エンジンの噴射炎だったのかなあ。??? それとも、雲の切れ間から見えた明るい星の光だったのかなあ。??? (2) 普段は忘れていますが、そういえば、上記以前に 2 回、変わったもの(空飛円盤?)を見ていました。 両者とも定期旅客便航空機、または、飛行船の見間違いかとも思われますが、分かりません。 その時分の私自身が若くてシッカリしていなかったのと、記憶がおぼろげなので、話の内容が覚束ないですが、以下のようなものです。 なお、空飛円盤は私が小学校低学年当時にすでに話題になっていましたが、この頃には未だ UFO という言い方はありませんでした。 その後、 UFO という言い方が一般に広まり、 歌謡界でも1977年から1978年にピンクレディの UFO がヒットしたのです。ですから、以下の話題は UFO 流行の初期段階でした。
(その2) これも1970年代前半で、秋のある日の15時、私は仙台市青葉山にある東北大学工学部電気系研究棟の図書室(2階)で 研究文献を読んでいました。
暮れた晩秋の西空に宵の明星(金星)が ギラギラと輝いているのにもビクつく帰り道でした。 [註] 電気系研究棟は2011年3月11日(金)に発生した東日本大震災で大きく被災し立ち入り禁止になりました。 return |
27. 父の宝くじが当選
なお、当時は未だジャンボ宝くじはありませんで、1等賞金は2000万円程度でした。 当時の300万円は2012年現在の価値に換算すると700万円位でしょうかね。当時の上級甲種合格の国家公務員(超エリート公務員)の初任給が7万円程度の時代ですから。 (2012年は16万円台)。 よくまあ宝くじが当たったものです。賞金受け取りの手続きは地元の銀行(それとも、郵便局 ? )でとったものですから、 国鉄(今のJR)東海道本線・高槻駅のホームから真正面に見えるそのビルにデカデカと 「当市からマイカー賞が当選しました」と書かれた横断幕が掲げられているではないですか。 それを見て母・美枝は「買ったのはここではなくて大阪・梅田なのにねえ。」と言っています。 この梅田の宝くじ売り場は当選が多いので有名な所ではあります。 当時はマイカーブームが始まった時代で、正規の1等、2等・・・のほかに、このような「マイカー賞」なるものがあったのです。 ところが当時、父はもちろん、私も含めて私たちの家族には運転できる者がいません。それで、父は高級乗用車の代わりに、現金を支給されました。 父は、「このときは助かったよ。住宅ローンを支払うのに大変だったからね。」と喜んでいました。 return |
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28. 交通事故
(1) 2011年8月10日(木)20時50分、私は妻・暁子さんをお迎えに行き、 帰宅途中の茨城県ひたちなか市馬渡を走る国道245号線を北に向かって走っていました。 雷雨が収まったばかりの路面は濡れています。 暁子さんが助手席から「大きなトラックねえ!」と言うので見ると、 巨大なトレーラーが片側2車線の隣の車線を併走しています。 トレーラーの方が早かったので私たちの乗用車を徐々に追い抜いていきました。 運転席の車体だけでも大型トラック1台分あり、連結していた後ろの荷台には高電圧用電線を巻きつけるための巨大なドラムローラー が8台も載せています。 ただ、電線は巻かれていなくて、すべて空のドラムローラーでした。ナンバーは「岐阜」でした。 「岐阜から遠いところを・・・」と思わずつぶやきました。 翌日の午後のニュースバラエティ番組を何気なく見ていてると、 「岐阜県の東海環状自動車道で、渋滞で止まっていた数台のの乗用車などにトラックが追突した。」 と言うので画面をよく見ると、何と、昨日のあの巨大トレーラーではないか。 数台の乗用車の上に覆いかぶさり、連結部で「くの字形」に折り曲がった映像です。 しかも、荷台のドラムローラーは相変わらず空のままです。恐らく、北陸道経由を深夜に岐阜に戻り、そのため居眠り運転だったのだろう。 やはり、世間は狭い。 翌日の全国紙の2紙ともこの事故の記事はありませんでした。東海地方版には載ったと思います。 (2) 私の実家が、時によって、京阪神だったり三重県だったりで(父母が転勤族でしたので)、私は東名高速道路を年に10回以上の割で利用してきました。 よく覚えていませんが、2005年前後のある日の夕方、東名高速道路上り線の新都夫良野トンネルを抜けて、 急カーブと急勾配が続く下り坂を時速100キロで下っていたときに、 私の後ろから猛スピードで大きな蛇行運転をしているトラックが目の前を追い越してゆきました。 こういう危なっかしい箇所でこのように危険な運転をするトラックはさすがに始めて見ました。 「大丈夫なのだろうか。あのトラックは。」と大いに心配して見送っていました。 運転手はいい気分で得意気に優越感を持って運転していたに違いない。 数日後のテレビニュースで、この同じ場所でトラックが蛇行運転の果てに外壁に激突するという大事故がありました。まさに、あのときに見たトラックだったのです。 (3) 私の住む茨城県ひたちなか市の、歴史のありそうな緩やかにカーブしている道を通勤していた2000年ごろ、 黄色のセンターラインを30センチ位対向車線側にはみ出していい気になって運転する同じ車と時々すれ違っていました。 その度に「危ないなあ。」と思っていましたが、あるとき、その路線で対向車線にはみ出して運転していた車が対向車と激突するという事故がニュースで報道されました。 確かめようがありませんが、多分、その車に違いありません。ついにやったか、と。そのニュースの後、あのはみ出し運転の車には出会っていません。 (4) 猛烈な雷雨の中、私は東京からの帰り、未だ片側2車線だった時代の常磐道下り線を、石岡付近を走行していました。 雷雨が一段落した頃、後ろから1人の青年が運転する一寸いい車が得意げに猛スピードで追い抜いてゆきました。 私がしばらく走ってゆくと、その車がガードレールにぶつかって立ち往生しているではありませんか。 青年は大丈夫の様子。 「あーあ。お気の毒に。」と、私はそのまま通り過ぎました。1995年ごろの話です。 (5) 2001年1月4日(木)午後に、母のいる三重県の実家に向けて、東名高速道路下り線を通行していました。 都夫良野トンネルをあと少しで出口にさしかかる頃に渋滞でストップ。 やがて、パトカーや消防車が後方からやって来て、私たちの車を通過して出口の方に疾走して行きました。 トンネル内が右カーブなので、出口は見えません。かなりの時間が経っても車は動きません。 そのうち、停車中のあちこちの車から人々が出てきて、出口の方に歩いて行くので、私たちもそうしました。 出口を出て直ぐに、トラックの火災現場がありました。白煙で包まれています。消防車による消火中でした。 しばらくして鎮火に向かいましたので、私たちは再びトンネル内の車に戻ります。やがて、通行解除になりました。 火災がトンネル内でなくてよかったですねぇ。 以上を下の写真にまとめました。 その他、たくさんありましたが、なかでも、全国紙の 1 面に掲載された大事故については言及しないほうが身のためかも。 return |
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2001年1月4日(木)午後に山本暁子さんが撮影 |
29. 母の死
これは全く個人的なことです。 (その1) 母(山本美枝)は長年三重県志摩市の老人病院に入院していましたが、 2011年1月30日(日)の午前10時23分にいつの間にか息を引き取っていたそうです。95歳。 その少し前に介護士さんがオムツを取り替えたときはいつものように元気だったと言うことです。 それで、私は茨城県ひたちなか市を発って、東名阪自動車道の御在所サービスエリヤで車中泊をしました。 このとき1月31日朝に見た夢を次の日記で紹介します。普段は家族の夢を見ることはめったにありません。 ちなみに、父(山本弘)は1997年12月に82歳で肺炎で永眠しています。 30日にお通夜、翌2月1日に家族葬です。 1月31日(月)曇後晴 御在所サービスエリヤの車中泊で見た夢。**さんの家にいる。僕の左喉奥がいずいけれど、**さんと話をする。もう1人若い人がいた。 家に帰ると、玄関や庭にお花がいっぱい咲いていて、母が迎えて下さる。 家に入ると、よぼよぼの父が誰かに電話で「頑固になってねえ。」などと話している。 僕や母は、「父はもうだめだなあ。」と思う、という夢を見る。 9時に起きる。伊勢インターチェンジに11時近くに来る。・・・・・
なお、翌日の感謝式で、亡き母は田中真紀子文部科学大臣から感謝状が授与されました。 return |
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30. 化学会社で起きた爆発事故の予感
2012年9月20日頃から数日間、何も考えていないとき、何故か、時々、「アクリル二トリル」という、 高校か大学で習ったような懐かしい化学物質の名前が頭に浮かんで来るのです。 何でこんな名前が浮かんでくるのかが分からないまま日にちが経ち、9月29日の夕方のテレビニュースで、『兵庫県姫路市の化学工場で「アクリル酸」のタンクが爆発し、 それに巻き込まれた若い消防署員1人が亡くなられた』、と報じられたのです。あれは何かの予感だったのだろうか? 犠牲になった消防署員の名前も私と同じ「山本」なのも何かの因果なのかなあ? return |
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31. あとがき
どうも私は常人では余り起きないおかしなことが多かったように思います。ここに書き記した以外にも、 いろいろ奇妙なこと、数多くの偶発的な事件現場や事故現場との出食わせがありましたが、 取り止めもないのでこの程度にしておきます。同僚のO先生や馴染のI食堂の旦那さんとは、 お茶飲み話の種にしてきましたが。 広い世の中、もっと不思議なこと、がたくさんあるに違いありません。 が、このことにのめり込まない意志が肝要かと思います。 最後に、1つ、極く小さなことですが付け加えておきます。 「一寸の虫にも一分の魂」という諺がありますが、 私は人間と余り違いのない感情を持っていると思います。同じ動物です。 例えば、蚊取り線香を炊いて蚊の駆除をしているときに、 他の可愛らしい昆虫が「何とかしてくれ。」とでも云わんばかりに、 私の目の前や指先に寄ってくることがよくあります。私は「よし。逃がしてあげるから、辛抱して待っててくれ。」と そっと外に逃がしてやるのですが、その間、私の意志が通じているかのようにじっとしています。 また、窓ガラスでさえぎられて外に飛んで行けなくなった昆虫を逃がすときには、「よし、逃がしてやるから、言うことを聞いておとなしくしていなさい。」 と心に思いながら、やさしく接すると、自分の思うとおりに容易に逃がしてやることができます。 獰猛なスズメバチでさえも大人しくなります。心が通じるのですかね。 人間のエゴで、「昆虫などの小動物は本能でのみ行動をし、感情は持たない。」と言われますが、どうもそうではないようですよ。 ただし、人間に危害を加えようとする小動物や動物には注意が必要です。
定年退職から3年経った66歳の今、奇妙なことはほとんどありません。が、朝の起き掛けの静かなとき、 左耳奥から左喉奥にかけてシーンという強い音を感じます。 多分、脳の中の海馬領域が過敏で動物的本能が強いのでしょう。それで、現代生活とのギャップで疲れていたのでしょう。 こうして、長年の疲労が溜まってきたのですが、睡眠を十分にとっても一朝一夕では回復しません。長期間のくつろぎの期間が必要のようです。 回復の速度というものは本当に遅い! 1995年代頃に、自ら進んで国家公務員共済組合のS病院に診察を受けましたが、「異常なし」でした。 それでも、脳腫瘍等の精密検査を病院の先生にお願いすると、「血液に薬剤を注入して脳の血管映像を写すことになるので、 それなりの準備と、これがしの費用がかかる。」と言われまして、「それほどまでして検査することもなかろう。」 と思って止めた経緯はあります。 2012年代に、日本との政治問題が起きたときに、各国の首脳が立ったまま苦悩しているという姿が私の夢枕に現れる、ということが再三ありました。 return |
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(その2) (1980年代) 電子材料の古典統計 |
(その3) (1980年代) 制御工学の極配置 |
採点訂正の要求を聞くところ (2000年頃) |
(1990年代) |
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四時川渓谷の紅葉(つづき) 1997年11月10日(月) 天気は晴 川沿いの危険な林道にて |
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四時川渓谷の紅葉(その2) 上の5年前の1992年11月上旬 天気は高曇り 川沿いの危険な林道にて 人の来ることのない渓谷の紅葉の色はかくの如しです。 しかし、今はここに来ることは危ないかも知れません。 |
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付録 2 変わった道路表示と交通安全看板
下左の画像は制限速度が時速45キロを示しています。中途半端な珍しい数値です。 理由は分かりませんが、ダム工事車両通行用のためか、と思いました。1990年5月の連休にたまたま訪れた 山形県西置賜郡飯豊町にある白川ダム奥の一般道です。 下中の画像は1993年8月上旬に新潟県北魚沼郡小出町 (現 魚沼市)から発して新潟県北魚沼郡湯之谷村(現 魚沼市)の険しい山中を、 福島県寄りにかなり入った国道352号線で撮ったものです。初めて私がここを通ったのは1985年頃。今回で3度目です。 当時、この道路は、①未舗装の滑りやすい砂利道で、 ②道幅が狭く、③ガードレールが一切無く、④急勾配で、 ⑤道路下は急傾斜で深い谷へと落ちており、⑥一番近い人里から10キロも離れていて、⑦他の車の通行は全くありませんでした。 そのため、「バイク通行厳禁」の看板も新潟県側の入り口にありました。 もし、スリップしたら、即、 崖下への転落となり、本当に「連絡方法は無いぞ。」と 運転する私の足が震えるくらい怖いものでした。 なお、1990年代後半に舗装され、ガードレールも付きましたので、危険はなくなりました。 下右の画像では、この危険であった当時の道路が遠望できます。福島県に入ると、奥只見湖を経由して、 日光国立公園・尾瀬の北側の御池を通り、 南会津郡桧枝岐村に至ります。 |
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付録 3 ベニテングタケ(紅天狗茸)
童話の絵によく出てきますが、実際に見ることは滅多にありません。 広島県東広島市上三永の道路際の山林に見つけました。 ここは、住宅が散在しますが、マムシが多いそうです。 |
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広島県東広島市上三永にて 2004年9月18日(土) |
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